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| 六騎伝説 |
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〜柳川地方に伝わる平家落人伝説〜
今でも柳川地方では漁業者や、海苔養殖業者のことを「ろっきゅう」と呼びます。これは六騎伝説から来た言葉です。
■六騎伝説
仲井克己先生のホームページから抜粋します
「平(テーラorデーラと呼称)の平家落人伝説
修羅の世界を生きた武者の末期は、天地の間に立ち、抗うことなく己の運を粛々と受け入れることにあった。新中納言知盛が壇ノ浦にて「見るべき程のことは見つ」いってのけたとき、知盛の眼には先世の十善戒行の力によって万乗の主とうまれながらも運尽きて浪に玉体を沈ませた安徳天皇の末期の姿があった。知盛は、平家一族の、そして武家に生まれた者たちの運の果てを見た。 (『平家物語』)(参考文献5)
壇ノ浦から九州に落ちのびた平家一門は、ようやくのこと太宰府に辿り着いたが、源氏が天下を取ったため長くとどまることができなかった。そこで久留米の草野氏を頼ったが相手にされず筑後の山門本吉山にある清水寺に加勢を求めた。清水寺の僧兵数千人は、平家の恩義を忘れずに船小屋の北方尾島において源氏の大群を迎撃した。
しかし、時の運に乗じた源氏の軍勢の前にもろくも敗れ去り、九郎原から中山・上庄、下庄、吉井の里から清水、そして、野原庄へと逃れた小桜威の鎧も無惨に引き裂かれ、弓弦は切れ矢はすでに尽き果てて、ついに狩道カリジの駅に着いた。平家軍は、飯江障子ケ岳の麓、要川から物見塚一帯に陣を敷いた平家の武将は文字通り最期の戦いに挑んだ。
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| ★要川公園 |
★田園地帯に流れる要川 |
しかし、琴平山に大物見を設け源氏の軍兵を待ち受ける平家武将が見つめていたものは、時の運に見放された平家一門の歩んできた道ではなかったか。そして、平家は、雲霞のごとく押し寄せる源氏の大群の前に勝つ術もなく、中原の戦いで決定的な敗北を喫した。
川岸は平家武将の屍で埋まり、要川は血で染まったと伝えられる。
また捕らえられた平家の武将たちは、各地で首をはねられた。野町の平家塚もその一つである。今も、各所に無名の塚や墓塔、地蔵尊が残り、村人たちから供養されている。わずかに逃げ逃れた武将たちは、細谷川沿いに深山へと身をひそませた。平家の姫君たちは、もはや逃げることも叶わず四方を断崖に囲まれた中原の奥深くの森に分け入り、今を限りと瀧に身を投じた。
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| ★「七霊宮」 |
★「七霊の瀧」 |
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夏でもひんやりとした森に囲まれている |
これが「七霊の瀧」のいわれであり、そばに「七霊宮」シチロウサンがひっそりと立つ。里の人々は、姫君たちが鯰に変身したと信じている。飯江川下流の竹飯や海津にも「七霊宮」を祀っている。各々、1名の女官の死体が流れ着いた場所とされる。昔は、三宮同時の祭日が設けられていた。
また、落武者となった五人の平家武士は肥後の山奥の五家荘へ、また浦河・難波・若宮・是永・加藤・鳴神の六人は柳川沖の端に逃れ永住した。今も、柳川北原白秋記念館のすぐそばの「六騎」という地に後裔が住んでいる。さらに、落ちのびることもできず、山の中に隠れ住んだ一党は、数年の間昼は森に隠れ、暗くなると食べ物を探しに山を降りるという生活を続けた。おそらくは、田尻氏の配慮を得ての逃避生活であったと考えられる。
やがて、追捕の手がゆるむ頃になると里の人とも言葉を交わすようになった。しかし、名前を正直に言うこともできずに、平姓を「坂無」という名に秘した。現在、高田町亀谷地区に「平」テーラという集落があり、二十戸のうち十八戸が坂梨姓である。「現人神」を祀り、毎年四月十六日に法要を営んでいる。また、山川町に「五位軒」「谷軒」という地名が残っているが、ここも平家残党の住み着いたところと伝えられている。
十善戒行の力により帝位に即いた万乗の君ですら、運が尽きたときにはただ粛然とその道を歩まねばならない。たとえ寺社であろうと、運が尽きたときは滅亡の危機に瀕する。平家に味方した山門清水寺は、豊後の緒方三郎の手によって焼き討ちにあった。
柳川「六騎」の「耳塚」に地蔵尊がお祀りされている。 「耳塚」という名前は、島原の乱に由来するということであるが、地蔵尊はもっと古い? 難波家の墓の前にあることから、あるいは、もっと古くから祀られていた?・柳川「六騎」には、観音様がお祀りされている。山門清水寺・京都清水寺と関係が深い? 「六騎」の観音様は、山門清水寺・京都清水寺の観音像と「同木同作」と伝えられる。」
以上仲井先生のHPから抜粋しました。
詳しくはhttp://edu-project.com/まで
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