
著者:早川嘉美(現・日本連珠社理事長)
【はじめに −東海九朗記述 −】
【連珠命名百周年記念】
本年(※1999年)12月6日、「連珠」(当時は「聯珠」)命名100周年を迎えます。当時,連珠は「五目ならべ」「五丁ならべ」「格五(格伍)」「五聯」「京碁」とよばれ、古くは「五石(いつついし)」と様々に言われていましたが、第一世高山互楽師(※本名・黒岩周六、号・涙香)は軽蔑されやすいのを遺憾として、明治32年12月6日、『萬朝報』紙上において「聯珠」の名称を制定すると発表しました。
これについて互楽師は、後日、次の通り述懐しています。
「『五目並べ』は『格五』とも『五並べ』とも『五聯』とも様々に呼称せらるれど、孰れも字面、面白からず、明治31年の頃、日刊新聞萬朝報紙上に五目並べの事を掲ぐるに当たり、高橋清致之を講述し、余之を筆記する事となりたければ、なんとか美しい語を得て取り替えたしと思ひ様々に苦心し、囲碁の方に対して『聯碁』と称せんかと思ひしも、聯碁は既に囲碁の方にて、数人の碁客一局を囲みて戦ふことを聯碁と称する事あり甚だ紛らわしいければ、寧ろ『聯珠碁』と称する方よからんと、碁語を書し居合はせたる友人等に諮りたるに、机を並べたる故小林天龍之を見て、既に聯珠と云はゞ碁の字は無益なり、単に聯珠と称するに適当なるに如かずと告げぬ、天龍は漢詩を善くし殊に漢文字を駆使するに長じ又様々文字の典故に通じたり、余考一考して、忽然として真に天龍の意見の精確動す可からざるを悟り、雀躍して聯珠なる哉、聯珠なる哉と叫び、即日より之を用ひたり。」
昭和54年、私は連珠史の研究に没頭したことがあり、完成時に次のコメントを記しています。
「゛連珠史を求める"は当初はこんな大それたものに挑むつもりはなかった。しかし、先哲の歩みに触れた時、その魅力にぐんぐん引きこまれてしまった。たかが一趣味の連珠、と人は言うかもしれない。しかし歴史にはそんなものをふっ飛ばす人生の深みと夢を、あしたがあった。遊びの歴史もその時代時代の貴重な遺産である。わが国はこれら歴史に対する評価が一般に低い。もっともっと庶民文化として高く評価するべきであると思う。ぜひ、見直して欲しいものである。
歴史を書き終えた今、ひしひしとそんなことを考える。」
今年の12月6日、連珠100周年を迎えるにあたり、当時の研究に補筆を加えながら連珠史をたどってみることに致します。
なお当時、私は関係書物を読み漁り、連珠の文献、資料を求めて手を拡ろげました。主な調査先は次の通りです。
京都市立岡崎図書館、京都府立総合資料館、国立国会図書館、同上野図書館、京都市史編さん所、大阪府立中之島図書館などの公的機関と、家元と称された方のご子孫を探し出しての文字通りの実地調査、さらに連珠会の大御所と言われた吉村哲、平岩米吉、新宮珠鳳諸先輩ら多くの方々に面談を求めるなど繰り返しました。
参考文献などはその都度記しますが、この研究に当たっては勝良昌司、西山厚両氏の絶大な協力があって初めてなし得たことだあったことを付記します。
【連珠のルーツを求めて】
連珠は一体いつ頃から生まれたものであろうか?富森信夫は、『聯珠』誌の中で次のように述べています。
「碁将棋の余技として、後から生まれたものだろうとの説と、物事は単純から出発するから、盤上遊戯として先ず生まれたのは五目並べであろうとの両説があり、著者は後説を採る。
茲に何千年前かの春、原始人が歌と踊りに倦きて、何か知的なものを求めるようになった。大木の伐採に雨露のために自然に生じた割目が、丁度碁盤の目の様になっている。貝殻か小石を並べて遊んだのが、聯珠の始まりであろう。最初は四つ並べを争ったのかもしれない。之は直ぐ出来て興味がない。といって六目並べは絶対に不可能だから、自然「五目並べ」に落ちついたと云う見方が自然であろう。とすれば碁や将棋よりも遥かに其発祥は古いと云うことになる。之は想像説であってハッキリとした根拠がないが、事実らしく思われる。」
しかし、これだけでは余りにも漠然としており、ズバリこれが正説であるというには実に心もとありません。いま少し具体的な資料を得ることが出来ないだろうか、こうしたことから調査の範囲が広がってきました。
連珠史を探るには、ゲームの流れを充分に見定める必要がある、という考えに立って、先ずゲーム史を調べてみました。もともとゲームは
に大別されると言われており、連珠は配列ゲームの典型的なものであることは論を待ちません。こう言うわけで、配列ゲームの流れを中心に調べていくと、大変興味深い記述にぶつかりました。
「古代エジプトのクルナに描かれていた図と中心部は完全に同じもの。朝鮮ではミル、中国ではサム・キムという。遅くとも江戸時代にわが国で遊ばれていて、無論、明治時代にも遊び継がれていた石並取りゲームという盤上ゲームがある。これは実に紀元前14世紀のエジプトのゲームと全く同じものであった。」(石川宏一著『盤上遊戯』)

〔石並(いしな)取り〕
敵味方、それぞれ9コずつの駒を持ち、交互に盤上の交差点上や角に置いていくか、または盤上の駒を一路動かす。3目並べれば、相手の駒を1コ取り去ります。駒が2コになった方が負け。
これが、今日知られている配列ゲームの最古のものであるといいます。氏はこれが発展して、三目並べ、四目並べが生まれたと言う。同氏はさらに、
「五×五の盤で、四つの駒を一列に並べるか、四角に置く四目並べがある。
配列ゲームは、さいころを振って出る目の数という偶然性に依存せずに、交互に指して、競技者の知恵で争うものであるから、盤上ゲームとしてはかなり発展した段階のようである。
我が国でも良く知られている連珠(五目並べ)は、配列ゲームのさらに発展したものである。五目並べは、ブリテンでは14×14の盤で、対岸のベルギーでは16×16の盤で遊ばれている。インダス文明のモヘンジョ・ダロの遺跡から発掘された遊戯盤の1つは配列ゲームの可能性が大きいが、クルナの神殿の図といい、配列ゲームも長い生命を保っている盤上ゲームである。」
と結んでいる。
何と古代エジプト紀元前14世紀に既に親しまれていたことを知り得るのです。
だが、世界への連珠普及が現実となった現在、イギリス、ベルギーで親しまれていたと言う確認はできていません。それとは別途いわゆる「五目並べ」としては次ぎの国にそれぞれ特有の名称があることが判明しており、自然発生的に生まれたと見るのが正しいのかもしれません。
その一方では、我々が本格的に連珠の国際普及の第1歩を記した昭和57年、既に世界コンピューター選手権が第2回を迎えており、共通用語として「GOMOKU」が使われていました。
こうしてみると、各国の五目並べは我が国の外交官、商社マンらが旅のつれづれに興じたものが、「楽しいではないか」と人の心を捉え、脈々と受け継がれてきたとみるのが、的を得ているように思われます。
なお、東欧の交点に対し、西欧ではマス目に置き、違いが見られます。興味深い所です。
以下は次号(※99年8月号)に譲ることにしますが、調査研究の後に、不思議な出会いが生まれています。少しばかり紹介してみましょう。
【邂逅 出会いの不思議さと楽しさ】
高山互楽第一世名人(本名・黒岩周六、号・涙香)の曾孫と一緒に、仕事に取り組んだことがあります。京都新聞に『くらしの便利帳』というPR誌がありますが、昭和58年6月別冊号として小生の『頭のジョギング』が発行されました。その時の編集責任者がその人。名前を失念してしまったのがなんとも情けないが、夫君の転勤に伴いインドネシア?に移住されることになり、交友が途絶えました。
「私の祖父(正確にはもう一代前)も連珠をしていたみたいですよ」に、姓を確かめると黒岩と言われ、判ったものです。
当時東京在住の父君(涙香氏の子)が散逸した資料を取り戻すために腐心されていることをお聞きし、収集した資料をお届けしたものです。
紹介は次回以降になりますが、史実により確認されている最初の連珠家は第10代桑名屋武右衛門であり、1700年代後半の人です。
下って第13代桑名屋武右衛門により、最初の連珠書「五石定蹟集」(1856年)が発行されることになります。これが、現在世界で認知されている連珠のルーツということになります。なお、桑名家は京都松原柳馬場に住まいし、「五石家元」として”松柳舎”を名乗ってました。
そして現在十三代武右衛門の曾孫、大塚素子さんと御交友いただいております。夫君との交友があったところ、私が連珠に打ち込んでることを知り、向こうから声を掛けていただきました。
連珠のことはほとんどご存知ありませんが、「先祖がそのような人であったらしい」とのことです。旧姓が桑名さんと知り判ったものですが、不思議なご縁です。
私のことにも少し触れておきます。桑名家の遺児は連珠に興味なく、「五石家元」を明治34年、当時の第一人者・中興の祖と謳われる「和田隠石(本名・和田卯吉)に譲ります。現在第三代和田卯吉さんがご健在ですが、この和田隠石こそ私の祖父の実兄その人です。
隠石の弟・早川本石、早川美勝、早川嘉美(※筆者)(さらに、強四段、美枝子初段、光志初段)と続くわけです。連珠の魅力から抜け出せず、今日を迎えていることはこのためだったのでしょう。 (第1回目了・つづく)