朝
1.
夜が明けたようだ。
早起きの鳥たちの声が聞こえる。
優子は、ゆっくりと目を開けた。
隣を見ると、いつものように、史生(ふみお)が横に寝ている。
史生が隣にいること自体は、目を開ける前に、触って確かめるのが
癖になっているので、既に確認済みだ。
少しひげが伸びている。
わずかに口を開けて、気持ちよさそうに寝ている。
よく寝ているようだ。
こうしてみると、母親の傍らで寝ている幼児の様にも思えてくる。
いつもなら、飽きるまで、史生の顔を眺めている優子だった。
が、今日は、そういうわけにはいかない。
振り切るように、視線を史生からそらし、窓の方を向いた。
カーテンから、漏れてくる光の具合で、まだ夜が明けきっていないと分かる。
きっと、明るくなり始めたくらいなのだろう。
優子は、全裸のまま、歩いていき、カーテンだけを開けた。
閉まっているレースのカーテンを少し開け、顔だけをのぞかせた。
30歳を、まじかに控えているとはいえ、スリムでいて、要所要所には
ボリュームのある優子の裸身は、それを見る機会を与えられた男にとって、
それだけで悦楽を与えうる逸品だった。
華奢なうなじから胸に目をやると、ツンと持ち上げた格好の乳房は、
振るいつきたくなるような大きさとやわらかさを持っている。
まだ、出っ張っていない下腹部から、下に目をやると、控えめな茂みが
見える。
お尻は、張りを保っていて、しかもなお、包み込むようなやわらかさを
備えている。
史生は、この優子のお尻にたいして、偏執とも言えるような執着を示し、
お尻の割れ目に手を当てながら、寝ることがよくあった。
時折、愛撫まで混ぜてくるので、その前の交わりの高波が舞い戻ってきて、
高ぶってしまい、寝付けなかったことも、一度や二度ではなかった。
そういって、何度も、史生に言ったのだが、やめることは無かった。
気持ちが高ぶってくるのは困りものだが、愛した男が、自分の体に対して、
執着を示していること自体は、不快ではないし、何より、愛した男に
すべてを投げ出して、抱き合ったまま眠りにつける幸せは、他の何物にも
変えがたく、つい、強く拒否できないでいた優子だった。
優子は、足を少し開いて立っているので、お尻の割れ目から、陰部が少し
のぞいている。陰部は、少し前までの激しい交わりの余韻を残していて、
しっとりとしている。
ひょっとしたら、レースのカーテンの隙間から、裸が見えているかも
しれない。
けど、もういいんだ。
今日、ここを出ていくんだから。
裸を他人に見られることの拒否反応よりも、そういう女と暮らしている
史生を、貶めたくないと言う気持ちの方が強くなっている自分に、気が
ついていない優子だった。
夜の闇から、少しずつ空が青くなってきて、しだいに、あたりの景色が、
見渡せるようになってくる。
そんな時間だった。
5月も半ばに入ったので、それほど寒いと言うわけでもない。
しばらくの間、優子は、次第に明るくなっていく町並みを、レースの
カーテンの隙間から、眺めていた。
優子は、いつもの癖で開けてしまったカーテンを、また閉めなおした。
明るくなると、史生の目がさめてしまうかもしれない。
史生は、暗い部屋がきらいで、起きるとすぐにカーテンを開け放ち、窓も
全開にしてしまう。
それが、真冬だろうが、私が着替えていようが、おかまいなしだから、
困ってしまう。
きっと、何人もの近所の人に、私の下着姿を見られていることだろう。
最近は、多少学習したのか、レースのカーテンだけを残しておくように
なった。
でも、私が、裸や、下着姿でないことを確認するや、さっさと窓を開け放つ
ことは、変わらなかった。
優子は、どっちかと言うと、閉めたままにしておいて欲しかった。
昨夜の激しい交わりの余韻が残っているかのような、雰囲気が好きだった。
そのままにしておいてくれたら、史生が仕事に出ていった後、また、布団に
戻り、昨夜の余韻と、史生の匂いに包まれながら、まどろむことが出来る。
でも、こうきれいさっぱり開け放たれてしまったら、そんな雰囲気は
消し飛んでしまう。
後に残るのは、健康的で、希望に満ちた未来だけだ。
そして、そんなものは、私には、望んでも得られないものなのだ。
今までの仕事の癖が抜けず、そういう健康的で、当たり前の朝の様子が、
いまいち、なじめない。
自分が、立ち入ってはいけない領域のことなんだ。
私のような女は、望んじゃいけない世界なんだ。
そう、自分に言い聞かせていた。
少し肌寒くなってきたので、ショーツだけをはいた。
これだけでも、少し暖かくなるから不思議だ。
面積からしたら、大した違いは無いはずだが、少しましになるから不思議で
ある。
ブラジャーをつけようか迷ったが、やめにした。
つけてしまったら、もう夜ではなくなる。
そして、朝になったら、.........
優子は、ショーツだけをはいた姿で、史生に再び目をやった。
(もうお別れ。)
そう思うと、目が離せなくなった。
「さよなら、私のおとこ。」
と、小さくつぶやいた。
そう、史生は、優子にとって、最初の「おとこ」だった。
処女をささげたわけではない。
ロストバージンの相手は、高校の1年先輩だ。
彼が卒業をまじかに控えた時期の初体験だったこともあって、それから
2-3度セックスをしただけで、自然消滅してしまった。
今になって思うと、お互いに、セックスと言う経験をつみたかっただけで、
愛と言えるようなものは、かけらも無かったように思える。
それから、何人もの男が、優子の上を通り過ぎていったが、みな、優子を
性欲処理の相手として、手に入れただけのことであった。
ある者は、一度きり、ある者は、幾度か。
その回数の差こそあれ、違いは無かった。
体のすべてを開いて、奥の奥までささげたい、そう感じた初めてのおとこが、
史生だった。
史生に抱かれている時は、史生が、途中までしか入ってこないのが、なんとも
もどかしかった。
史生のは、平均よりも少し大きめだったが、とても足りなかった。
体の中全部を貫いて欲しかった。
だから、優子は、抱かれている時は、いつも、
「きて、きて」
と叫びつづけた。
全身を痙攣が包んでもなお、その思いが癒されることは無かった。
そういう時は、感じやすい自分の体が、恨めしかった。
私が不感症なら、もっと長く、私の中にいてくれる。
そう思えるのだ。
避妊リングを入れてあるので、妊娠の心配はない。
最後は、史生が、優子の中に精液を放出して終わるのだが、それが、時間が
たって、性器から外に出てくるのさえ、腹立たしかった。
(せっかく史生がくれた愛なのに)
そう思えた。
出来ることなら、体中を、史生の愛で、満たして欲しかった。
もしそれが可能だとしても、決して、満たされるわけではないであろうことも
また、心のどこかで理解していた。
優子が本当に求めていたものは、どんなに望んでも得られない、いや、得ては
いけないものだったからだ。
2.
ほんの1ヶ月前まで、優子は、夜の女だった。
かつてはOLをしていたこともあるのだが、ずいぶん昔のことの様にも
思える。
高校卒業後、普通の商事会社に就職して、電車で、片道30分の道を、自宅
から通っていた。
普通に勤め、普通に遊び、同僚の男性や、プライベートで知り合った男性と、
お付き合いをしたりすることも無いまま、21歳を迎えた。
結婚するには、まだ早いと思っていたし、処女と言うことも無かったので、
特に、あせりというものは無かった。
同僚の男性からは、何度も誘われたのだが、なんとなく面倒で、恋人は作ら
ないままだった。
セックスも、たいして面白くなかったし、欲求不満に陥るでもなく、ただ
平穏なOL生活を送っていた。
そんな生活が変化し始めたのは、同僚に誘われて、海外旅行をしてからだ。
優子は、ブランド物には、あまり興味は無かったのだが、一緒に行った
同僚の子が、勢いよく買いものをしているのを見て、ついつられて、
ブランド物のバックを買ってしまった。
当然のごとくカードで買ったのだが、帰国してみて、ゆっくりとそのバックを
眺めていると、なんだか、一人前の女になったような気がした。
(やっぱり、高いだけの事はある)
それが実感だった。
作りもしっかりしていて、それでいて、おしゃれだ。
一度、こういう本物を手にしてしまうと、安物では、我慢がならなくなって
くる。
で、部屋を見回してみると、今までの自分が、いかに安物に慣らされていた
のかがわかり、カルチャーショックを受けた。
目先のお金が要らないこともあり、少しずつブランド物をそろえだすと、
止まらなくなってしまった。
気がついたら、払いきれないほどのクレジットの請求書が届いていた。
後はもう、坂道を転げ落ちるようだった。
サラ金に借金を作り、それが焦げ付くまでには、大した期間はかから
なかった。
親にも言えず、携帯にまで、催促の電話が入るようになり、なかば、
脅されるようにして、水商売のアルバイトを、始めることになった。
最初は、普通のピンサロだったのだが、「そんなんじゃ返せないぞ」と
脅され、本サロに店換えさせられた。
後で知ったのだが、両方とも、系列の店だったようだ。
本サロとは、本番アリのピンサロのことだ。
体を売るのは、絶対に嫌だったが、借金はあるし、男たちは怖かったので、
断りきれなかった。
こうして、体を売るようになった。
その頃までは、何とか、昼間の勤めもしていたのだが、体が持たなくなって、
昼間の勤めを辞め、夜だけに絞ることになった。
体を売るようになって、半月後、同居していた親にもバレてしまった。
借金は、親が肩代わりしてくれて、借金はなくなったものの、半ば勘当同然
に、家を追い出された。
兄貴が、良いとこのお嬢さんとの結婚が決まっていて、「元娼婦」の妹がいては
都合が悪いと言うことだったようだ。
結局、私は、住むところもなく、もとの本サロ嬢へと戻っていった。
幸いにしてというか、不幸にしてというか、その店は、寮があって、
そこに住み込むことが出来たので、一石二鳥だったのだ。
後で知ったのだが、追い出したものの、心配になって、母親は、何度か寮の
付近に来ていたようだ。
それを親心というのかどうかは、今の私には、なんともわからない。
ただ、いえるのは、私は事実上、親を失った、ということだけだ。
史生と出会ったのは、本サロ嬢に戻って、2年ほどたった頃だった。
本サロは、比較的若い子が多く、中堅という年齢に差し掛かっていた優子は、
指名も減っていて、あまり収入が上がらなくなって来ていたので、
いっそのことソープに移ろうか?と考えていた頃のことだった。
こういう商売をしていると、朝のうちはたいてい寝ているし、たまに目を
覚ましたとしても、周囲の目があって、外出しずらい。
たいていは、午後になってから、出かけるようにしていた。
優子は、公園で、何もせずにボーっとしているのが好きだったが、週末は、
家族連れで混み合うので、避けるようにしていた。
だがその日は、余りにも天気がよく、我慢ができずに、つい買いもののついで
に、いつもの公園に立ち寄ってしまったのだ。
いつものベンチに座って、ボーっとしていると、隣に若い男が座った。
若いといっても、自分と同じくらいか、少し下くらいに見えた。
悩んでいるような、疲れているような、そんな様子で、「ハーッ」と、ため息を
ついた。
仕事がら、こういう男のしぐさには慣れているので、別に驚かなかったが、
それゆえに、つい、いつもの癖が出てしまった。
「どうしたの?」
「えっ?」
男は、驚いて、こちらをみた。
それが、史生だった。
その時の、どこか子供のような純真さを秘めた瞳が、今も忘れられない。
その後私は、今までの、自分に課したタブーのことなどすっかり忘れたよう
に、雨の日も風の日も、週末の午後になると、その公園に出掛けた。
私が、史生のアパートへ行くようになるまでには、2ヶ月もかからなかった。
その時は、つかの間のアバンチュールのつもりだった。
私の仕事のことを知れば、別れることになるのは、目に見えていたからだ。
だが、史生は、そうしなかった。
代わりに、
「俺が食わせてやるから、その仕事をやめろ。」
といった。
その言葉を聞いて、朝まで、泣き通した。
まさか自分のような女に、真剣にそんなことを言う男がいるとは、思っても
みなかったからだ。
泣いたまま、史生に抱かれ、泣いたまま、抱きあって寝た。
とうとう、朝まで眠れなかった。
明るくなってきて、カーテンの隙間から眺めた、あの朝の景色は、死ぬまで
忘れないだろう。
そう、今日のような、底抜けに晴れ上がった、春の朝だった。
その後、この間まで勤めていたクラブに移り、本格的に、史生と暮らし
始めた。
史生は、コンピュータ関係の開発の仕事をしていて、フレックス制という
こともあり、夜は比較的遅くまで仕事をしているので、それほどすれ違いも
なく、楽しく暮らせた。
いつか訪れるであろう別れのことは、常に頭から離れなかったが、それゆえ、
「今」というものを楽しむことが出来た。
史生との、一瞬一秒を、ひとつ残らず心に刻み込むかのように、懸命に
史生の一挙手一投足を、見つめてきた。
だから、史生といる時は、出来るだけ、一人で外出しないようにしていた。
買いものなどは、平日に済ませ、週末は、出来る限り、史生から離れ
なかった。
週休二日が定着してきたせいで、優子が勤めていたクラブは、土曜日は希望者
のみ、日曜日は定休日になっていたので、優子は、土曜日も休むことにしていた。
二十代後半になった優子が休んでも、店には大した影響も無いらしく、
あっさりと受け入れられた。
史生は、どちらかと言うと、マザコンタイプで、甘えん坊だった。
お風呂は、たいてい一緒に入って、じゃれあうのが普通だったが、生理中
だけは、一人ではいることにしていたので、その間は、史生は、ただボーっとしていた
みたいだ。
で、優子がお風呂から出てくると、ぷーっと、ふくれて、不機嫌さ丸出しの
様子で、たいていはTVや、ビデオを見ていた。
その後は、優子がすり寄っていって、最後は、優子が口で奉仕して、めでたし
めでたしとなるのだ。
生理中は、生理用ショーツだけはつけていたが、それ以外の服は、脱いで
寝ていた。
史生にとっては、何気ない一日の終わりだったろうが、優子にとっては、
限りある一日の終わりなのだ。
出来る限り、全身で、史生の体を感じていたかった。
史生も、優子の体のやわらかさを感じていたかったようで、抵抗するどころ
か、至極ご満悦の様子だった。
朝は、たいてい優子のほうが先に目を覚ましていた、
朝、目を覚まし、隣に誰もいない場面を何度も夢にみて、飛び起きたことは、
一度や二度ではない。
その度に、気持ちよさそうに寝ている史生の寝顔を確認し、再び、史生に
すり寄って寝る時が、優子の至福の時間だった。
叩いても起きない史生だったが、そういう時は、熟睡しているくせに、
優子の体をまさぐってくるから不思議だ。
たいていは、背中から始まり、お気に入りのお尻の割れ目で落ち着くのが
普通だった。
そのため、最初から、史生に背中を向けて、すり寄ることにしていた。
向き合って寝た場合、史生の大好きなお尻には、いくら優子が背が低いと
いっても、手が届かない。
目を覚ませるのもかわいそうなので、最初から、手が届き易いように、背中
向きですり寄る事になったのだ。
本当は、向き合ったまま、抱き合って寝たいのだが、仕方がない。
優子は、史生の手が動くに任せ、ただひたすら、史生の肌の感触を味わい、
史生の匂いに包まれて、また眠りにつくのだ。
セックスから、間もない時間だと、また気持ちが高ぶってくることもあった
が、たいていは、そのまま眠りにつくことが出来た。
そんなことが何回か続いたので、朝、目を覚ましたら、目を開ける前に、
史生の体を探し、その感触を確かめることが、習慣になってしまい、
早起きになってしまったのだ。
まあ、早起きと入っても、世間一般からしたら、そうは言わない時間では
あるのだろうが。
3.
優子にとって、史生との別れは、既に定まった規定事実のようなものだった。
それは、優子が、体を売っていたという過去だけが理由なのではない。
史生は、地方の名家の次男坊であるらしい。
家業は兄が継いでいるので、その必要は無いが、故郷へ帰れば、誰でも
知っているくらいの家柄なのだそうだ。
そんな暮らしが窮屈で、大学卒業とともに、都会へ出てきて、一人暮らしを
していたようだ。
実際、優子と暮らし始めてからも、一度も帰郷しようとしなかった。
優子のために、あえて帰らなかった、ということもあるのだろうが、
そればかりでもないようだ。
仕事柄、いろいろな男と知り合い、その悩みを聞かされてきた優子だった
ので、こういう状況の男女が、どうなっていくのかは、知り抜いていた。
普通の女と結婚してさえ、家柄の違いゆえに、別れなければいけないことが、
多々あるのに、まして優子は、娼婦だったのだ。
進んでそうなったわけではないが、だからといって、娼婦であったという
事実は消えない。
史生が、今までの生活すべてを捨て去って、優子との愛にのみ生きることは
可能だろうが、それが、史生にとって、ベストの選択であるとは、到底思え
ない。
自分のために、史生の将来を、台無しにしてしまうこと。
それだけは、絶対にしてはならないことだった。
それをさせないことだけが、自分のような女を、心から愛してくれた史生に、
優子が出来る、唯一のことだった。
史生は、家柄という点を除いても、いわゆるエリートだった。
一流大学をストレートで卒業し、世界的に一流とされている企業に就職した。
そこでも将来を嘱望され、二十代の若さで、主任を任されている。
なんでも、同期入社の中では、トップなのだそうだ。
優秀な頭脳、常に前向きな性格、そして、それを鼻にもかけない温和で
気さくな性質。
どれをとっても、すばらしい未来を予感させるものばかりだ。
そんな史生の唯一の欠点は、自分のような娼婦を愛し、暮らしていることだ。
史生の将来にとって、自分という存在は、マイナスでしかなく、いつか史生と
別れなければ、史生のためにならないことは、分かりきっていた。
史生にとって自分は、職場での一時的なストレスから立ち直るための処方薬、
それに過ぎないのだ。
いや、そうあるべきなのだ。
だから、優子は、いつでも、史生と別れることを念頭において、生活して
きた。
ただ、この生活が、一年、二年と続くうち、
(このまま続いてくれたら......)
という気持ちが、次第に膨らんでくるのは、抑えようが無かった。
いずれ、別れがくるのを理解していながらも、史生の子供を抱き、史生と二人
で、ささやかな生活をしている光景を、思い描いている自分に気がつき、
慌ててその思いを押さえ込むのだ。
優子がここで暮らし始めて数年になるので、周囲の住民にも、自然と優子の
存在が知れ渡っていて、周囲では、夫婦とみなし始めていた。
買い物帰りに、同じアパートの奥さんと会った時など、最近は、「奥さん」と
呼ばれるようになっていた。
また、そういう時は、史生のことを、「ご主人」とか、「旦那さん」と呼ばれたり
もしていた。
その度に、
「まだ、籍は入っていないんですよ。」
と、答えるのだが、一昔前と違って、同棲ということに対する暗いイメージが
なくなってきたようで、
「若い人は良いわねー」
「子供が出来たら、籍を入れなきゃだめよ。」
とか、冷やかされたり、アドバイスをされたりで、全く気にとめてもいない
ようだ。
優子の秘めた決意などは、周囲の人たちは知るはずもなく、「史生の奥さん」
としての地位を、優子は築きつつあった。
「奥さん」
どれほど、この言葉を望んだことだろう。
体を売り始めた頃は、自分には一生訪れない呼び名であろうと、あきらめて
いた。
それが、今、史生という存在によって、当たり前のように与えられつつある。
これこそが、優子が、思い描いていた夢だったのだ。
避妊リングにしても、史生は、外せと、いつも言っていた。
「出来たら出来たで、いいじゃないか。」
そう、いつも言うのだ。
その度に、優子は、適当に言い訳をして、ごまかしていた。
避妊リングは、子宮内部の着床部に固定するのだが、次第に、子宮内壁が、
リングを覆ってしまい、効果がなくなってしまう。
そのため、一年に一度、産婦人科を訪れて、処置をしてもらう必要があるの
だが、優子は、年に一度の産婦人科通いは、絶対止めなかった。
史生の子供を産んで、一人で育てるということも、考えないではなかったが、
親を失った自分の悲しさを、自分の子供に味合わせてはいけないと、子供は
つくらないでいた。
自分の場合は、身から出たさびだが、生まれてくる子供は、最初から父親が
いないのだ。
その寂しさは、容易に想像がつく。
4.
そんな生活に、決定的な変化をもたらしたのは、1枚の紙切れだった。
30歳をまじかに控えたある日、部屋の掃除をしていて、見慣れない封筒を
見つけた。
封もされておらず、会社の封筒でもなかったので、何気なく中を見て、優子
は、我を失った。
中には、茶色の縁取りの薄っぺらい書類が1枚、きれいに折りたたまれて、
収められていた。
その表題には、「婚姻届」と印刷されていた。
中を見ると、そのほとんどが記入済みだった。
未記入なのは、「妻」に関する欄だけだった。
婚姻届は、成人の保証人が、2人必要だ。
そこを見ると、ちゃんと記入済みだった。
下の名前は知らないが、姓のほうは、何回か史生の話に出てきた友人のもの
だった。
1人目は、几帳面な字で、もう1人は、ミミズの這ったような字で。
だが、丁寧に書き込まれていた。
日付を見ると、もうじき訪れる、優子の30歳の誕生日になっていた。
その婚姻届と、何も書かれていない封筒を胸に抱いたまま、優子は、声を
出さずに泣きつづけた。
史生の優子に対する思い、婚姻届の保証人になってくれた友人たちの思い、
それらが、いっせいに優子に降りかかってきて、部屋の真中に立ちつづけたまま、
何時間も泣きつづけた。
普通、保証人は、それぞれの親がなる。
それが、友人2人が記入することは、きわめて異例だ。
その友人たちは2人とも既婚者なので、きっと、そう言った事だろう。
おそらく、事情を説明して、それを理解し、保証人になってくれたんだろう。
ひとしきり泣いた後、優子は、封筒と婚姻届のしわを出来るだけ元に戻し、
もとの場所に戻した。
私がこれを見たことを、史生に気づかれてはいけない。
優子にとって、この封筒は、二人の関係の終わりを告げるものだったのだ。
それ以後、優子は、終わりの日がくることを、恐れなくなった。
もう、それは来たのだ。
絶対に、私のような女の名前を、史生の戸籍に記させてはいけない。
私が娼婦であった過去が消えないように、史生が、たとえ一日であろうと、
娼婦の妻を持ったという過去は、消しようが無いのだから。
次の日から、優子は、ここを出ていく準備を始めた。
最小限必要なものをスーツケースに入れ、またスーツケースを元に戻すと
いう作業を繰り返した。
衣類などは、衣変えを口実に整理をし、洗面道具などは、新しく買いそろえ
た。
そして、30歳の誕生日を、1週間後に控えた頃、準備が完了した。
5.
(もう行かなきゃ)
もうすぐ8時になる。
いくら休日で、加えて、朝寝坊の史生とはいえ、目を覚まさないとも限らない
時間だ。
追いかけてきても、つかまないだけの余裕を見ておかなければいけないのだ。
ショーツだけをはいた格好で、しばらくいたので、すっかり凍えてしまって
いた。
5月半ばとはいえ、少し薄着過ぎたようだ。
これが見納め、となると、いろいろな思い出がよみがえってきて、つい、
何時間か経ってしまった。
優子は、ブラジャーをつけ、用意しておいた服を着た。
その間、一度も史生の方は見なかった。
見てしまったら、出ていけなくなるからだ。
すべての準備を終えた後、史生が隠した婚姻届の入った封筒を取り出し、
ハンドバックにしまった。
(これは、私の宝物だ。
誰にも見せずに、死ぬまで、肌身離さず持っていよう。)
玄関まできて、ふと、立ち止まった。
そして、振り返った。
そこには、ゆうべ見たままの、ありふれた玄関の光景があった。
ずっと夢みてきた、そして、到底かなえられないであろう、夢の生活が
そこにはあった。
そこには、いつも史生がいて、その傍らには私がいた。
史生と私は、いつも同じ場所にいて、同じ夢を見ていた。
けど、行かなくちゃ。
もう、行かなくちゃ。
優子は、そっとドアを開け、そっと、かぎを閉めた。
外は、底抜けに晴れ上がった、春の朝だった。
どこまでも澄んで、世の中に、つらいことなど何も無いような、そんな空
だった。
優子は、そんな春の日差しを浴びながら、何かを断ち切るかのように、一歩、
また一歩と、歩き始めた。
(了)....................................?
by CRA 2001/05/28