〓序論、拙文では何故一切の論文手法を用いないのか。(1995年第一稿)
新聞記者が情報のウラを取るという手法を真似した訳ではないでしょうが、何事もデータでかたづけなければ気がすまない現代人にと
って、近年「高度情報社会」とか「情報革命」とか言われる言葉が一つのブームとなっているようです。
ただ、情報社会に追随するにせよ、あるいはそれを批判するにせよ、その様式もまたデータ、しかも往々にして定量的データを用いたも
のであって、結局同じ土俵に立って相撲の軍配の正否を問うているだけのようで、詰まるところはこれらの人達も所謂「データ病」にかか
っているように思えてなりません。
今、「データ病」と申し上げましたので、昨今世間を騒がせた一連の事件を取り上げてみましょう。--------
例の「オーム真理教事件
」、「新宿のホームレス問題」、それから「深刻ないじめ」、「中年サラリーマンのリストラ」、更には「エイズ患者の急増」そして「ユーゴの
分裂」や「ルワンダ内線」を筆頭に世界各地で広まる内乱や宗教テロ等々。----
これらは一見ばらばらな出来事のようですが、いくらか
なりとも冷静に見れば、これらの全てが相互に関わり合っていることは、もう明らかな事で、殆ど同様の原因に端を発している事は自明
ではないでしょうか。実際、新宿の飲食街で残飯をあさる人達も遠い海の向こうでドンパチやっているサラエボ近郊の人達も全く同じ問
題を抱えています。それは、データで、とりわけ定量的データで証明こそできないものの、つまる所「個人の社会的アイデンティティの崩
壊」あるいは「従来の伝統的価値の崩壊」あたりに起因しているに違いないと大方の人は直観的に把握されるているのではないでしょう
か? そこで、問題は、何故近年こうも社会全体が混乱してしまったのかという事ですが、この真因は後の「システム病」の項で自説を
詳しく述べたいと思います。
それはさておき、やたらと学術論文や参考文献を並べたり、コンピュータによる加工データ、果ては新聞記事等を引用したもっともらし
い論文形式をここで極力排除する理由を述べなければなりません。一言で言いましょう。つまり、そのような論文手法の発想法(より厳
密に言えば、近代科学の特徴であるいわゆる弁証法的実証主義や比較対照的実験手法)それ自体が現代社会を混乱させている大き
な一因となっていると思えるからです。従ってそのような混乱をもたらした手法を以て、その混乱を鎮める事もまた不可能であり、ただ書
類の山を不毛にも積み上げるだけであるからです。これを小生が自分の論理で証明するには、中世の「生気論」とか「機械論」あたりま
で遡って、更にはギリシャ哲学あたりまで遡ってそれこそ骨の折れる作業を後30年位死ぬまで続けなければなりませんので、ここでは
1例だけを挙げさせて頂くだけにとどめたいと思います。
例えば、かの偉大な哲学者プラトンですが、彼のイデア説が本当に分かる(本当に分かるとは、勿論ここでは一種の宗教的体験を通し
て分かるという事を意味します)には、我々凡人には大体数百年位かかるかと思うのです。仮にノーベル賞クラスの大天才でも一生か
かって分かる保証は全くありません。従って哲学史とか哲学概論とかいう学問が果たして成立する余地があるのかということになります
。
もっと端的に言いますと、我々は本当の意味で、極めて厳密な意味で、果たして「本を読んで何かを知る」ということができるのかという
事です。 もし、我々の潜在意識が予め拒否していれば、我々はいかなる崇高な(あるいは陳腐な)学説や意見も決して受け入れる事は
ないのです。何故ならば、選択する以前に既に選択が働いているからです。従って、うどんが好きかラーメンが好きか如きの好き嫌いの
レベルにとどまります。つまり我々は永遠に選択することはできないのです。仮に選択したつもりでも、それは真の選択ではなく、一種
の偏見か錯覚か好みが既に働いているのです。こんな事を申し上げますと、高尚な学問の話を「うどん」や「ラーメン」と同レベルに扱う
のはけしからんと言われるむきもあるかと思いますが、そういう人達は一途に1つのテーマを真摯に追求したことがないから気づかない
だけの事なのです。実際、これは事実であります。これを小生は客観幻想と名づけていますが、実の所、殆どの学者や専門家は、客観
的と称してこの「うどん」と「ラーメン」論争でえんえんと派閥争いを続けているだけなのです。個人の好みの問題に蘊蓄を傾けるのなら一
種の愛嬌というものでしょうが、ここに客観的という御墨付がついた時、その時学問であれ情報であれデータであれ地に堕ちた魔物とな
ってしまうのです。
かくして学問とやらは狭義の形而上学つまり雑学になります。よって、一部の自然科学を除き、学問とは錯覚の再生産に他ならない
のではないでしょうか。学問が一部の人達の聖域であった時代には余興で済んだものの、これだけ大衆化し日常化しそしてテクノロジ
ー化した現代においてその矛盾(つまり錯覚の大衆化)が一挙に社会の矛盾として噴出したものと取れるのではないでしょうか。 序論
ばかりが長くなりすぎましたが、この点だけは先ず冒頭で徹底的に検証した上で先に進まなければなりません。
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