随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−113

「2002年元日の愚考」
太陽が地球の周りを回り、地球が太陽の周りを回るあいだに、
私のパラボラ・アンテナはときとして意味不明瞭な雑音のような宇宙線を受信する。
その中には、夢のようなもの、神話のようなもの、理想のようなものも混じっている。
そして、最近とみにその雑音が多くなってきたような気がする。
私のパラボラ・アンテナの感度が衰えてきた証拠なのだろうか。
それとも、年齢とともにますます私の耳鳴りがひどくなっただけなのだろうか。


宗教が個人の問題である限り、最も安全である。
個人の偏見は、たとえ神がかりであろうと、限度があるから。
しかし、宗教がいったん集団の問題になったとき、最も危険である。
集団の偏見は際限がなく、地域や国家や民族をも巻き込んで高圧的に拡大してゆくから。
個人の偏見は収束し帰るべき場所を持っている。
しかし、集団の偏見は収束し帰るべき場所をどこにも持たない。


人と人が結びつくとき、文化が生まれ、宗教が生まれる。
しかし、同じ生い立ちながら、文化と宗教は全く性格の異なる兄弟である。
前者は穏健な現実主義者であり、後者は過激な理想主義者である。
文化を異にした対立は大きな悲劇を生むかも知れないが、多くの犠牲を生むことはない。
しかし、宗教を異にした対立は決まって多くの悲劇と犠牲を生み出す。
あるいは、人は現実よりもかえって理想のために命を投げ出す性癖を持つ動物なのかも知れない。


外国人から非難されるように、私を含めた現代日本人一般は無宗教であるのかも知れない。
しかし、無宗教は決して無信仰とイコールではない。
現代日本人は、無宗教ではなく宗教的に寛容なのである。
日本の歴史を調べるとすぐ判るように、400年前や150年前、宗教的不寛容によって国際的な非難や恥辱を蒙った過去がある。
その過失を自ら認めて、日本人は次第に汎神論になってきたのである。
現代日本人の聖域には、八百の神々も、三千の諸仏も、唯一のエホバやキリストやマホメットも、民主的に混淆している。
日本ほど宗教が民主的に平和的に共存している国は、世界でも類を見ないのではないだろうか。
それは国家として異常なのだろうか?
私には、むしろ唯一の宗教に凝り固まった国家のほうが異常に想える。


「貧しき者は幸いである」…いや、やはり「豊かな者は幸いである」
人生の豊かさは、断じて物の多さにあるのではない、心の広さにある。
一片のパン、一塊の肉、一滴のぶどう酒に豊かさがあるのではない。
豊かさはあなたの心にある、断じて物自体ではない。
あなたの心は、無尽蔵な人生の貯蔵庫ではないだろうか。
だが、あなたの心の豊かさを共有してくれる人はどこにもいない。
他人は皆んな、あなたの豊かさに気づかず、返って心の貧しさを責め立てる。


古代から人々はありとあらゆるものを情報の記録媒体としてきた。
石塊、木片、綿布、製紙…現代では磁気テープ、ICチップ、光ディスクなど。
それら媒体の豊富さと大容量化によって、人々はいずれ全ての情報が全ての分野にわたって完璧に記録されるようになることを望んでいる。
いわば、古代から現代に連なる情報の不老長寿を願望しているのだ。
しかし、残念ながらそのような願望はけっして達成されることがない。
一枚の木の葉、一匹の毛虫の運命すら、完璧に記録することなど不可能である。

次ページへ
前ページへ
目次へ