随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−112

古代、思想は石に刻まれた。
近世、思想は紙に記された。
そして、現代、思想はパソコンに打ち込まれる。
将来、すべての思想は電子化され、インターネットで伝えられる。
だが、どの思想が本当に一番長持ちするのだろうか?
地震や火災やテロに曝されながら、最後に残るのは石に刻まれた素朴な思想なのではないだろうか。
「汝、殺す勿れ!」


私は、宗教というものを過大評価して裏切られた人間の一人といえるかも知れない。
だから私は、もう宗教を信じないが、それでも地獄は信じている。
それは誰の胸にも消しがたく投影されている孤独地獄である。
私自身、自らが直面した孤独地獄に狼狽えることが多い。
それでもこの地獄を見据え、自ら責任をとらなければならないと思う。
孤独であること、それを真摯に自覚することは、本人が自立した証拠である。
自立した人間は、自分の孤独に最後まで責任を持つ。
自立しない人間は、長々と言い訳し、最後には孤独地獄を他者に責任転嫁しようとする。
今年起きた多くの物騒な事件の犯人は、情けないことに自分の孤独に責任が持てない人ばかりであった。
孤独であること、大衆の中にあって常に自分の孤独と責任を忘れないこと。
それが古代に聖徳太子の唱えた「君子は和して同ぜず」ではないだろうか。


愛する人の死に直面したとき、自分の中で時は止まってしまう。
だが、愛する人の死を現実に受け入れないかぎり、時は再び流れない。
この世で、他人と別れることを受け入れることで、時は再び流れる。
あなたと別れよう、時が流れるのを受け入れるために。


私はあなたをよく知らない。
あなたもまた私をよく知らない。
ほとんど多くの人は、他人に理解されることなく、謎のまま人生を終えてしまう。
そして、その謎は虚時間の宇宙に飛散し、永遠に解き明かされることがない。
ひとりの人の生涯はそんなにも理解されることがなく孤独なものである。
だから私は、「人ひとり死すごとにひとつの世界が滅んでゆく」という言葉の重さを絶えず意識している。


人は誰でも自己中心的である。
勉学や仕事において、「自分はもっと評価されてもいいはずだ」と常に思っている。
しかし、そんな人に限って、自分の正当な評価を求めるが、他人の正当な評価はほとんどしたがらないものだ。
そこから個人の断絶と孤立が生まれる。
ほとんどの人は、正当に評価されないまま人生を終える。


二十代のころ、寝食を忘れて読み耽った書物が、五十代の今では一ページ読むのさえ重労働に感じられるようになった。
なぜこんなにも思考することが、生きて行くことが重荷に感じられてくるのか。
やはり、脳みそをもっとも独創的に使うためには、何よりも若くなければならない。
人が、肉体というハードウェアと精神というソフトウェアの総体であるなら、ソフトウェアの劣化はいかにしても止めようがない。
そのことをつくづく自覚させられる己れがたまらなく哀れである。
人が否応なく死んでゆくのは、あるいは喜ばしい運命なのかも知れない。

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