随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−105

私はいつも自分の視点に限界を感じている。
日常生活においても、日本の失業率の高さにおいても、アメリカの同時多発テロにおいても、あらゆる現実において、私はたった一つの視点しか与えられていない。
「世界はこんなにも多種多様なのに、なぜ私はごく限られた狭い視点しか与えられていないのだろうか?」
私の哲学の根本命題は実はひどく単純なのである。


貴重なまでに無聊な休日、何を考え、何を行って過ごしたらいいのだろう。
休日を思う存分謳歌するには五十歳はもう心身ともに柔軟さが不足している。
気候の変化で体調は最低、居室で椅子に座っているのさえ苦痛である。
たった独りでテレビを観るのも、パソコンを操るのも退屈極まりない。
無聊のあまり夜半に戸外に出てみると、中空に下弦の月がかかっている。
その見慣れた平凡な、そして孤独な月の光がむしろ羨ましく思えた。
人間は月光よりも儚く、虚しく、独りぼっちである。
今更ながらに、たかだか数十年の人間の貴重な宿命が身に沁みてきた。


愛憎、明暗、白黒、左右、正負、矛盾、二律背反、パラドックス…数え上げたらきりがない。
だが、なぜそんな相反するものがこの世界に存在するのだろうか?
実はそういう基本的な疑問が一番難しい。
人間は、愛でもあり憎でもあり、なおかつ愛でもなく憎でもない渾然とした感情を知らないからである。
愛は憎との関係においてはじめて愛として認識される。片方が無くなれば、もう片方も忽然と消えてしまう。
明でもなく暗でもない、白でもあり黒でもある、左でもなく右でもない、正でもあり負でもある…人間は結局、これらの相違を見分けられるが、これらが合成された状態を見分けられない。
人間は左手と右手、左足と右足は必要だが、それらが合成された両手や両足が必要なわけではない。
相反するものを究極的に解消することが重要なのではなく、それらを日常的に使い分けることが重要なのである。
弁証法的発展でおなじみの「正」・「反」・「合」は、あたかも左手と右手からその高次の段階として両手そのものを究極的に造り出そうとするようなものである。
しかし、それは論理のごまかしであり、何の解決ももたらさないだろう。
人間は二律背反の見分けがつく。しかし、二律背反を超克するすべを知らない。それで良いのである。


私が多くの先哲から学んだことは、「何事も盲信しないこと。すべて基本から問い直してみること」である。
たとえば、「目を閉じる。全く何も見えない。目を開ける。一瞬にして多彩な光景が見える。この一瞬にはたしてどんな時空座標の変換が起こるのだろうか?」
このことを基本から問い直すことは、非常に難しいが、きっと大きな意義があるだろう。


小さな雨滴の真理。
「エネルギーの一瞬は短く、そして長い。
小さな一滴の雨粒が巨大な岩石にしたたり落ちる。
岩石の表面は微動だにせず何事もなかったかのようだ。
しかし、数十年間の小さな雨滴のエネルギーはやがて巨大な岩石に深く大きな窪みをつくる。」


生き物は、生まれてから死ぬまで「食べ物」と切りはなせない。
食べ物は、なにはさておき「健康に良い」こと、つぎに「味が良い」こと。
しかし、たいていの人は、なにはさておき「味が良い」こと、つぎに「健康に良い」ことを選んでしまう。
味が良いかどうかは一口で分かるが、健康に良いかどうかは一ヶ月たっても分からないからだ。
たいていの人は、生まれてから死ぬまで目先の「甘い誘惑」に弱いのである。

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