随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−104

現代には複数のメディアがあり、世界中の情報が比較的容易に手に入る。
テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌、インターネット…しかし、一個人に対してそれらのおびただしい情報は瞬時に流れ落ちる滝の一滴一滴に等しい。
そのおびただしい情報量をとても網羅し捉えつくせない。
世界の事象はとめどなく流れ落ちる壮大な瀑布である。
誰もその流れを下流から上流へ逆転させることはできない。
そして、私は哲学の原点に帰る。
哲学はけっして情報の寄せ集めではない。
多くの情報を必要とするが、ただ大量に乱雑に多ければいいというわけではない。
何よりも理性的な方法によって整理され、体系化されていなければ哲学とはならない。
たとえ日和見的な哲学であっても、なんらかの個人の意思が反映されている。
私は、壮大な瀑布の中の一滴の道筋を丹念に見極めるだけでも、哲学の意味はあると考えている。


私は断言する。
この世界に愛する者を見つけられない思想は不毛である。
この世界は確かに安全ではないし、弱いものには生きにくい。
しかし、それがこの世界を徹底して嫌悪する理由にはならない。
私もこの世界に偶然生れ落ちた命なら、いかに弱くても生き抜いてみよう。
私は正直に告白する。
人間が頭の中で考え、完璧だと思われる真理など何ほどのものでもないのだ。
私が本当に愛する女の柔肌に触れるとき、私は自分の哲学が何ほどでもないことを知る。
あなたはこの世界がたとえば、大地も植物も動物もすべて鉄や岩石でできていたなら、と空想したことはないだろうか。
たとえば母の乳房が石灰岩の肌触りであったなら、私は赤ん坊の時この世界に生れ落ちたことにもっと絶望していただろう。
ほとんど視覚も聴覚もない赤ん坊の私は、母の本物の柔肌に触れてどんなに精神的に安心したことだろうか。
あるいは、愛する女の柔肌に接して、どんなにこの生きにくい世界に対する呪詛が和らいだことだろうか。
哲学よりも宗教よりも、男にとって女の現実的な柔肌のほうがはるかに生きがいを与えてくれるのである。
私は、堅い樹皮を持った樫の木でもなければ、硬い外皮をまとった甲虫でもない。
私には柔らかい皮膚や脆い筋肉しか与えられていない。
だからこそ、弱く脆い皮膚感覚で、私はこの世界を愛するのである。
それを知らないものは、恐らくこの世界でついに愛する者を見つけることができない不毛のテロリストの生涯を送ることだろう。


最近また腰痛や眩暈に悩まされ、季節の変わり目に体調が最低最悪である。
自分の皮膚や骨格が自分のものでないみたいな恐ろしい違和感を覚える。
自分が分裂してゆくような嫌な感覚とでもいおうか、医学的な専門用語はわからないが、離人症に近い感覚ではないだろうか。
だからときとして、こんな馬鹿げた妄想を抱くほどだ。
−−20XX年、私は死亡した。しかし、驚くべきことに、その時の私は、大脳を含めて身体組織の99%は、臓器移植や遺伝子治療によって別人のものだった。たった1%の自分。では、トータル1%だけ死んだ私とは、そもそも何者なのだろうか?
私の存在自体はすくなくとも医学的所見や物質的知識では何の証明もできない。
その証明できないことに、私はこんなにも長い間苦しんできたのだ。
哲学することが、人間存在の不安な病理そのものである。

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