随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−103
この世界に神は存在しない。
この不安な世界に怯えた人間が生み出した幻覚である。
他人が悪魔の顔をしていることに怯えた人間は声高に神に呼びかける。
しかし、神からの返事は一度もない、昔も今もただ一度として。
神という幻覚を求める度合いが強い人間ほど、悪魔に魅入られた顔つきをしているものだ。
そして悪魔の顔をした人間は、ただ悪魔の顔をした他人を罵り続ける。
この世界に悪魔は存在する。
ここで改めて注意を喚起するなら、神が存在しないのはあくまで私にとってである。
悪魔が存在するのも、私にとっての世界観である。
だから極言すれば、他人にとって神が存在しようと、悪魔が存在しまいと、私にとっては関係ないことである。
私にとって存在しないのであれば、それを他人に説明することも強制することもできない。
あなたにとって神が存在するのであれば、不平をいわずその恵まれた世界観を容認すればいいだろう。
私は常に相対的な世界観を意識している。
『存在と自由と価値』の三業相即を信じているからである。
★
☆
私のホームページの若い読者に言う。
三十代、四十代の分別盛りになってから、哲学を始めようなどと決して思わないこと。
分別盛りになったら、もう七面倒な哲学書など読む気にもならなくなるはずだ。
哲学は、分別のつかない瑞々しい脳のあるうちに始めるべきである。
そして、くれぐれも哲学から報酬を期待しないこと。
いわば、信仰のように努力した結果として神の恩寵を期待しないこと。
信仰は、神の恩寵を与えるかわりに、理性によってあなたの肉体を殺すことを求める。
哲学は、何の恩寵も与えられないが、理性によってあなたの肉体を活かすことを求めるのである。
では、実際に哲学することによって何が与えられるのか?
それは私にも全くわからない。
だから、次のふたりの言葉を引用しておこう。
−−彼らは今では知っているのだ、人がつねに欲し、そしてときどき手に入れることができるものがあるとすれば、それはすなわち人間の愛情であることを。これに反して、人間を超えて、自分にも想像さえつかぬような何ものかに眼を向けていた人々すべてに対しては、答えはついに来なかった。
アルベール・カミユ 『ペスト』
−−多くの人間たちのなかで、われわれにとって完全に見分けのつくのは、われわれの愛する人びとの存在だけである。
シモーヌ・ヴェーユ 『重力と恩寵』
★
☆
極言するなら、この世で自分の本当に愛する者を見つけられた人は、ことさら神など存在しなくても生きてゆけるのである。
自分と同じように過ち、苦しみ、年老いてゆく存在、それでも本当に愛する者であれば、共に手を携えて力をあわせて生きてゆける。
しかし、この世で自分の本当に愛する者を見つけられない人が、狂信的に自分にも想像さえつかぬような何ものかに眼を向けるのである。
『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老が「地獄とはもはや愛することができないという苦悩である」といっているのは正しい。
神の栄光のため、神の御心のままに、自分の大事な命をささげる。
しかし、本当の神の御心は、そんな押し付けがましいちっぽけな命など噴飯ものだと思われているかも知れないのだ。
何よりも警戒すべきなのは、この世に本当に愛する者を持たず、この世のすべてを憎悪し、神を熱烈に讃美する人である。
次ページへ
前ページへ
目次へ