随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−100

私は、少なくとも現実主義者のあなたのように、第六感を頭っから否定はしない。
もしも、第六感などというあやふやなものは信用できないというのなら、現実の五感だって本当はひどくあやふやなのである。
嗅覚よりも味覚、触覚よりも聴覚、そして視覚が一番確かだと、あなたは思っていませんか。
しかし、たとえば深くて暗い森の中に迷ったときなどは、視覚よりもはるかに聴覚が確かな感覚になることがある。
そのとき、あなたは目を凝らすよりもはるかに耳を澄ますことに神経を集中させるだろう。
もしも、視覚も聴覚も全然当てにならない状況に陥ったとき、あなたはきっと第六感により神経を集中させているはずである。
その最も典型的な状況は、おそらく人生という深くて暗い森の中での恋愛体験である。
人は本当は、視覚も聴覚も全然当てにならない状況で、恋に陥ったり、生涯の伴侶を決めたりしてはいないだろうか。


寸劇
道化師「人間とは?」
聖者「人間とは、上半身は神に似て、下半身は獣に似るものなり」
悪魔「嘘をつけ! 人間とは、上半身は獣に似て、下半身は神に似るものだ」
道化師「ああ、永遠なる勘違い…」

私には、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』はこんな人間精神のファルス(風刺劇)に思えることがある。


私は無神論という頑固な信仰がある。
もちろん、この私も初めから無神論者だったわけではない。
若い頃は、自分の生活を犠牲にしても、神や真理を願い求めた。
宗教、思想、哲学、文学…あらゆる精神の営みに果敢に挑んだ。
しかしながら、私を満足させてくれる至高の神はどこにも存在しなかった。
たとえ大好きなドストエフスキーの小説の中であっても。
満たされない分だけ、私は余計頑固な無神論に陥ってしまったのかもしれない。


私は心のどこかで「パラレル・ワールド(平行世界)」を信じている。
世界は超時間的に幾つもの可能性の層を成している。
そしてどんな偶然にか、1951年に私は今ある世界に生れ落ちた。
それは私の選択的意志ではない。
さらに、私の両親、私の祖父母の選択的意志でもありえない。
偶然を必然にする自然世界の選択的意志であるのかもしれない。
ただ、私が薄々感づいたことは、どうも私が生れ落ちたこの世界は、さほどすばらしい世界ではないらしいということである。
いやむしろ、「考えられるうちで最悪の世界なのではないか?」という疑念がよぎる。
幾つもの可能性に恵まれた世界があるなら、どうして今ある世界ではなく、別なすばらしい世界に生まれなかったのだろうか。
だから私は、一度見て衝撃を受けたドイツの哲学者ショーペンハウアーの次の言葉がどうしても忘れられないのである。
「この世界は、考えうる最悪の世界である」
できるなら、私は目を閉じ、耳を塞いででもこの醜悪な言葉を否定したいと思った。
稀な偶然でせっかく生れ落ちたこの世界がよりによって「考えうる最悪の世界」だなんて、断固として否定したい。
しかし、私が日々耳目にするこの世界の事象は、私の否定願望をひたすら嘲笑する。
ショーペンハウアーはさらに次のように言う、「一体ダンテは我々のこの現実の世界以外のどこから、あの凄まじい地獄篇の素材を取ってきたのだろうか」
そう、まさしく地獄絵図の素材はこの現実の世界そのものなのである。
飢餓も殺人もテロも戦争も、この世界の人間にはとうてい解決できないものなのだ。
あるいはこうも言えるのではないだろうか。
「この世界は、考えうる最悪の世界である」と考える人間が絶えない世界である。

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