随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−99

人間を、その多面性において判断することは大変難しい。
だから、ときとして私は、人間を二種類に分けて判断することがある。
その二種類とは、サービス精神が豊富な人と、サービス精神が貧寒な人である。
もちろん、まれには自己にばかりサービス精神が旺盛な人も見かけるが、こんな人は単なるエゴイストである。
サービス精神はあくまで利他的な行為の表れである。
しかし、サービス精神の豊富な人が必ずしも人生に成功し、金銭に恵まれた生活を送れるとは限らない、むしろ全く逆かもしれない。
それでも、サービス精神を自己の哲学として惜しみなく発揮する人を、私はこよなく愛する。


あの世があるのかどうか分からない。
しかし、自分の居場所がこの世のどこにもないと悟ったとき、人はあの世を求めるようになるのではないだろうか。
苛烈な生存競争を強いるこの世は、弱い者、孤独な者、老いた者にとって身の置き所はごくごく限られる。
彼らの内部では、この世よりもあの世がより現実的に思えるときがあるのだ。


家屋の土台はそのままに周辺を増改築して百年間も使えるように、コンピュータもOSはそのままに周辺装置を増強して百年間使えるようにならないものだろうか。
今コンピュータにはハイテクの技術者ではなく、基礎のしっかりした大工の精神が求められている。


人生において、人が人を殺さなければならない場面などそんなに遭遇するものではない。
しかし、いざその極限状況に遭遇したとき、その人の本性が剥き出しになる。
「自分は目の前の敵を殺してでも生きのびる価値がある!」
だが、それは決まって極限状況での偏見に他ならない。
人は、自己保身という偏見の宿業を逃れられない。
「生きているすべての者に罪がある!」
だから、「全ての者が罰を受けるべきである!」


−−あるところに老齢の長者がいた。あるときその邸宅が火事になった。家の中では大勢の子供たちが火事にも気がつかず遊びに夢中になっていた。
無事に外に逃れた長者は、「早く出ておいで。さもないと焼け死んでしまうよ。」と呼びかけたが、子供たちは幼稚でその危険も知らずただ遊び戯れていた。
  『法華経 譬喩品』「火宅の譬」

44人の犠牲者を出したにしては、新宿歌舞伎町の雑居ビル火災(2001.9.1)は、「火宅の譬」そのままである。
人は歓楽のために危険を忘れる。
経営者は店の売上げを優先し、客の安全など二の次だった。
三階ゲーム店「麻雀一休」では、3人の店員が客を放置して窓から飛び降りて助かった。
16人の客は、避難口であるべき窓が建材などで塞がれ、逃げ場を失って焼死した。
四階飲食店「スーパールーズ」では、28人全員があっという間に一酸化炭素中毒で絶命した。
まさに人為的なスーパールーズが生んだ大量犠牲だった。
外部の音も聞こえない、部屋の外の煙にも気づかない、火災報知器も作動しない、狭く身動きもままならない雑居ビルの密閉された空間で、44人の無邪気な子供たちは、自らの逃げ場が何処にもないことに死の直前まで気づかなかった。

次ページへ
前ページへ
目次へ