随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−96

私は、「光と重力」のことをあれこれと思索するのが好きである。
むろん、私は物理学者ではないから、光と重力はほとんど空想めいたものになる。
しかし、物理学者でないために、かえって光と重力を自由に空想できるのである。
光は速度として表される。速度は距離の時間微分である。
重力は加速度として表される。加速度は速度のさらなる時間微分である。
光速度は一定であり、光に加速度はない。
しかし、光は力を持っている。プランク定数に振動数をかけたエネルギーのかたまりである。
光は重力の影響を受けるが、重力は光の影響を受けない。
だから、重力の方がより根源的であるように思える。
いや本当は、重力も光の影響を受けているのではないだろうか。
ただ人間には、その影響力があまりに微弱なため、今のところ観測できないでいるだけではないだろうか。
光はブラックホールという重力の監獄に囚われると永久に脱出できないという。
だが、光は怪盗ルパンのように別なエネルギーを持った電磁波に変身してやすやすと脱出しているのではないだろうか。
ニュートンは、万有引力の法則を提唱して、重力がどのような振る舞いをするかを説明してくれた。
しかし、彼は、そもそも重力の原因が何であるかを説明できなかった。
彼は、たとえ太陽系外の物質に対しても、重力の影響は瞬時に伝わるものと見なした。
光速度をはるかに超えて全く瞬時に伝播するのである。
アインシュタインは、一般相対性理論を提唱して、重力を時空宇宙の湾曲として説明した。
しかし、宇宙の湾曲が瞬時にしてはるか彼方の銀河に伝わるのかどうか、彼は何も説明していない。
現代物理学において、重力はほとんど神の奇跡にひとしいものである。
何といっても重力のすごいところは、目が見えなくても、耳が聞こえなくても、身体で重力を感じ取れることである。
逆にいうと、目を閉じても、耳をふさいでも、重力の存在を打ち消すことができない。
人間は、眩しい光や、騒がしい音から自分の意志で遁れることができる。
しかし、上下や遠近を体感させてくれる重力からは自分の意志で遁れるすべがない。
人間は重力という不可抗力の重荷を生まれながらに背負わされているのである。
だから、重力は光よりもさらに人間の生命と密接に関わりあっている。
目も耳も口も、手足も肺も心臓も、すべては重力という彫刻刀で作られた芸術品なのである。
聖書の『創世記』第1章は、『そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。」と記している。
私がもしも聖書を書くなら、『そのとき、神が「重力よ。あれ。」と仰せられた。すると重力ができた。」』と書き始めるだろう。
だが、重力はあまりに生命と密接に結びついていて、ふだんはほとんど意識されることがないため、聖書はもちろん世界中の神話にも、直接重力が神格化されて登場することはない。
森羅万象が神格化されていて、もっとも豊かなインドの神話の中でさえ、重力は冠位を与えられていない。
むしろ、神話は重力を無視することによって、空を飛んだり、海に潜ったり、自由自在でユニークな神々を生み出している。
神話は想像力という翼で、神々に重力のくび木から解放されることを許したのである。
だから、重力は恩寵ではなく、むしろ災厄と見なされ、神格化される道理もなかった。

フランスの女性哲学者シモーヌ・ヴェーユはその著『重力と恩寵』を次のように書き出している。
「魂の本性的なうごきはすべて物体の重力の法則に類似した法則によって支配されている。恩寵だけは例外である。
    ☆
 超本性的なものが介入しないかぎり、ものごとは重力に従ってはこばれることをいつも予想していなければならない。
    ☆
 二つの力が宇宙を統御している。光と重力と。」

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