随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−95
私はこれまで自分の身の回りにある自然をできるだけ直接手で触って確かめようとしてきた。
若いときは直接確かめるのが楽しみでもあった。
それをまた自分の知識で整理分類しようとしてきた。
その結果、私の精神にはおびただしい自然観のカタログが地層のように堆積した。
私はいやおうなく老いた。
そして、私はもう自然を直接触って確かめようとはせず、そのカタログを遠望して満足するようになった。
直接触れる自然はもう自分の思い通りにならないことをいやというほど知っている。
だから、少しは自分の思い通りになる仮想の自然観にすぎないカタログに執着するようになった。
他人ははたしてどうなのだろう?もう決して若くない他人の自然観は?
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☆
人間は社会的動物だから、群れを作る習性がある。
しかし、中には群れるのを嫌がる人もいる。
ライオン型に対するトラ型と色分けされる。
サラリーマンであっても、昼食は同僚と離れて一人でとる。
パブに行くときも、飲み友達を持たず、一人で飲む。
山歩きするときも、登山仲間を持たず、一人で行く。
彼は、厭人癖とかアウトサイダーとか呼ばれたりする。
彼は、自分の行動ルールを持っている。
といって、彼は、別に反社会的行動をとることはしない。
彼はただ、群れることで、自分のルールと他人のルールに折り合いをつけるのが煩わしいだけなのだ。
当然ながら、ライオン型に対してトラ型の数は少ない。
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☆
人間は他の動物のように本能的にではなく、文化的に「セックス(性欲)」を処理しようとしてきた。
だから、「知恵の木の実」とか、「結婚の儀式」とか、「子孫繁栄」とか、はては「進化論」まで展開して、文化的にセックスを定義づけようとしてきた。
しかし、すべての定義づけは、セックスの隠語に他ならないのである。
セックスは人間全般の問題でありながら、しかし結局はあくまで個人の問題である。
男も女も宿命的に与えられたセックスにもてあそばれ、ついには聖者になれない生き方を選んでしまう。
セックスの文化を脱却できないかぎり、人間はどんなにじたばたしても、結局聖者にはなれない宿命なのである。
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他人の表現する世界がほとんど理解不能になったとき、あなたはどんな態度に出るだろうか。
疑惑の表情か…、反発の表情か…、失望の表情か…?
少しは分かっていたと思ったのに、実はまるっきり誤解していたと知ったとき、私は、他人との絶望的な距離を感じてしまう。
たとえば、私が愛読していたドストエフスキーの文学。
しかし、江川卓の「謎とき『罪と罰』」を読んだとき、私はドストエフスキーを全く理解していなかったことを、今更ながらに思い知らされた。
結局、私は私、江川卓は江川卓、ドストエフスキーはドストエフスキー、という自明の観念に徹底的に打ちのめされてしまう。
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☆
とくに重労働した後でもないのに、ひどく疲れていて何もする気になれない。
本を読んでいても、テレビを観ても、窓の外を眺めていても、私の視界には全く何も存在しない。
世界は本当に存在するのだろうか。
私は、無気力な空想のなかで、もう何年も前に亡くなった肉親たちのことをぼんやりと思い出している。
亡くなった人たちの方が返ってふしぎな実在感がある。
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