随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−93
あなたはコンピュータに精通している。
コンピュータはどんなに進化しても、しょせん人間のためのツール(道具)にすぎないことをあなたは知っている。
でも、そんなあなたは、「ロボット」というものをまじめに考えたことがあるだろうか。
私は、「ロボット」の問題は究極的な哲学の問題だと考えている。
哲学は簡単ではない。人間の存在が簡単ではないからだ。
「人間はロボットに成り得るのか?」、「ロボットは人間に成り得るのか?」
この答えを求めて、私は、機械工学や生理学やサイバネティックスやSFなど、さまざまな「ロボット」に関する本を読んでみたが、どこにも私を満足させてくれる答えは見つからなかった。
もしかすると、私の考えている「ロボット」の本質と、他人が考えている「ロボット」の本質とは全く違うものなのだろうか。
まじめな物理学者や生理学者でさえ、「人間も本質的に分子構造をもったロボット(分子機械)に他ならない」などと平気で称えたりする。
しかし、その説明がどんなに分子の構造や遺伝子の機能について精密なものであっても、少しも私の疑問を晴らしてくれないのである。
それは、「人間の目にはなぜ物が見えるのか?」という疑問に対して、ロドプシンやアセチルコリンなどの分子神経学的な説明をされても少しも物自体が見えるようにならないのと同様である。
私は、どんなに精密な分子機械と捉えようとも、人間とロボットとは決定的に違う一点があると考えている。
それは、「自意識」があるかどうかという一点である。
生理学者も遺伝学者もエンジニアも、この決定的な違いに気づいていないか、あるいは普段はこの違いに目をつぶっている。
しかし、まじめな哲学者なら、この違いを決して見のがさない。
「自意識」がどんな分子や神経伝達物質によって生ずるのか、ほんとうは誰も説明できないのである。
自意識を持つ人間は有限で責任ある存在である。
自意識を持たないロボットは無限で無責任な存在である。
もしかすると、「神」とは、自意識を持ったロボットなのではないだろうか。
★
☆
−−故スタンリー・キューブリック監督のアイデアをスティーブン・スピルバーグ監督が引き継いだ映画「A.I.」が話題になっている。AI(人工知能)を有するロボットが人を愛するようになるというストーリーである。はたしてこの映画のようにロボットが感情を持つ日が来るのだろうか。古くて新しいこの問題が、今また議論を呼んでいる。
人間の知性を理性と感性とに分けるとすれば、従来のAI研究はもっぱら理性を対象にしてきた。理性はたとえば論理的思考に相当し、感性はたとえば感情、直感、創造性に相当する。人工的に知性を実現しようとしているAIにとって、理性が興味の中心だったのである。人間の知性を研究対象とする心理学でも、従来は理性が人間の知性の重要な大部分を占めていると考えられてきた。最近になって、感性が知性の中でもっと大きな役割を果たしていることが心理学でも判明し、AIでも感性の役割が強調されるようになってきた。また近来のAIでは身体性(一言で言えば、体を有するということ)の知性に果たす役割が重視されるようになってきた。体を有するコンピューターがすなわちロボットである。(中略)
技術的には将来、感情を「持った」(ように振る舞う)ロボットが出現する。彼らは人間の感情も理解しているかのように振る舞うことができる。そのときは社会として、機転は利くがたまにミスも犯す「感情を持つロボット」と付き合うか、言われたことしかできないがまじめに正確に実行する「感情を持たないロボット」と付き合うか、を選択しなければならない。常識的には用途に応じて使い分けることになる。一つのミスも許されない状況(たとえば原子炉の操作)では感情を持たないロボットを使い、家庭でのパートナーには感情を持つロボットを使う。そのときまでにAIは人間に違和感を抱かせないロボットを作らなければならない。
映画「A.I.」の主人公の少年ロボットが人間に対して抱く愛は、当の人間に違和感を与えるものであったと思う。ある人を愛してもずっと報われなければ、いつかは忘れて他の人を愛するようになるというのが、人間の持つ優れた知能だからである。そこまで人間らしいロボットが実現する日はいつであろうか。
2001年7月31日朝日新聞夕刊 「ロボットは感情を持てるか」松原仁
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