随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−92
私は今、ひとつの思考実験を行ってみようと思う。
「私が生まれつきの盲目だったと仮定して、そのとき私はどんな数学を理解できるだろうか?」という実験である。
(これは決して生まれつき盲目の人を差別するための思考実験ではないことをあらかじめお断りしておく。)
私はまず、赤子のように目をつぶる。真っ暗闇だ。
しかし、自分の両手を使って闇のなかの物を触って確かめることはできる。
口がきけるので、その感触を言葉で表現することもできる。
だが、自分の目を使って光のなかで実物を確かめることは決してできないのだ。
この辛辣な世界で、私は数学を学びたい。
盲目の私の前にテーブルを置き、タマゴを1コのせてもらう。
私は手で触ってみて、タマゴの感触を確かめ、「タマゴ1コ」と数えることができる。
テーブルにもう1コタマゴを追加してもらう。両方触ってみて、「タマゴ1コたす1コで2コ」と数える。
両手で2コ同時に触れるから、私は加算ができる。
タマゴ1コをテーブルから落としてもらう。私はテーブル全体を触って確かめ、「タマゴ2コから1コひいて1コ」と数える。
テーブル上の両手のとどく範囲で、私は減算ができる。
しかし、タマゴがマイナス1コという数理は触って確かめることができない。
テーブルに載るだけの有限なタマゴをたくさん用意し、グループ分けして触ってゆけば、乗算や除算も可能であるに違いない。
当然ながら、マイナスの乗算や除算は触って確かめることが不可能である。
「1コ5円の小さいタマゴ6コと、1コ8円の大きいタマゴ5コを買ったら、いくらになるか?」という代数学の問題にも、私は答えることができる。
目が見えなくても、根気よく学べば、全体は無理としても、四則演算や代数学のある部分は理解できる。
では、私が最も重要視する幾何学でははたしてどうか?
目が見えなくても、円周率やピタゴラスの定理は理解できるのだろうか?
盲目であっても、当然ながら自分を中心とした空間知覚は持っている。
自分の身体感覚に基づいて、外界の方向や傾斜はとらえられる。
そこで基準になるのは、距離ではなく、むしろ重力である。
盲目の私の前にテーブルを置き、サッカーボールや百科事典をのせてもらう。
サッカーボールの形や大きさ、百科辞典の形や厚さで、直線や平面、立体や球形や三次元などを触って確かめることができる。
では、何の支障もなく、私にも幾何学が理解できるのだろうか?
しかし、それらはすべて自分が触って確かめられる範囲に限定されるのだ。
盲目の幾何学では、測定や合同や相似や補助線など役に立たない。
巨大な観覧車や、巨大なビルディングを、どんなに精密な数式を使って説明されても、盲目の私はついにそれを全体的に理解することはできないだろう。
観覧車は刻々動いていて、それを手で触って確かめられないことはない。
だが、観覧車が全体的に百メートルの円形であることを理解するには、盲信するしかない。
巨大なビルディングが十万立方メートルの立方体構造をもっていることを理解するには、もはや両手の感触では無理だ。
闇のなかで形や大きさを空想することはできる。しかし、証明はできない。
証明できずに理解するとなると、あとは盲信するしかなすすべがない。
「群盲象を撫でる」という諺がある。
その真意は、盲目の人は、結局自分の触れられる範囲のみで象というものの理解が可能だ、ということである。
だがこれは、「群人宇宙を撫でる」と言い換えても通用するのだ。
人間は光学や電波などを用いて、宇宙全体を理解しようとしている。
しかし、闇のなかで宇宙の限られた部分を手探りしている盲目の天文学である。
結局自分の使える観測機で手探りし、物理学に置き換えて宇宙というものを空想しているだけなのである。
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