随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−89
当然のことながら、客観的で真実のみの歴史などこの世に存在しない。
いかなる人間も客観的な歴史の傍観者ではありえず、全時代を貫く真実をあらかじめ識っているわけではない。
個人や地域、あるいは民族や国家において、文字に記録された歴史はつねに曖昧で偏見に満ちている。
記録された歴史書をひも解くとき、権威ある側が編纂した歴史はかならず真実の半分を眼帯でおおう、これが私の基本的なスタンスである。
個人や社会や時代によって歴史観はさまざまだが、文字に記録するとなると、無意識にも権威の筆圧が加わるのが人間の性である。
タキツスや司馬遷や太安万侶などの古代の実直な歴史家は言うに及ばず、通信網が発達し映像が豊富な現代の歴史家においても、権威を標榜するキーボードをたたくとき、無意識にも指先に力が入ってしまうものだ。
それを感じたことがない者はおそらく歴史家の名に値しないだろう。
筆やキーボードを操るのは有限なパースペクティヴを持った生身の人間である。
どんな権威の圧力を加えようと、筆やキーボードそのものから客観的で真実のみの歴史が生まれてくるはずもないのである。
今日の新聞の夕刊に、こんな記事が掲載されていた。
−−歴史教科書に対する韓国、中国政府からの修正要求について、文部科学省は9日、専門家による内容の検討結果をまとめ、外務省を通じ両国に回答した。指摘通り「誤り」と認めたのは韓国が修正を求めた35項目のうち2カ所。中国の全要求を含め、ほとんどの指摘を「学説状況に照らして明白な誤りとは言えない」などと退けた。近現代史部分はまったく応じておらず、韓国は強く反発し、中国側の反発も必至の情勢だ。
2001年7月9日 朝日新聞夕刊の記事より
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私は、朝鮮の歴史については十時間、中国の歴史については百時間語れるだけの自信がある。
私は、近隣諸国の歴史知識においても決して人後に落ちないと思っている。
しかし、自分の国日本の正史については何時間語っても自信がない。
私はそれだけ自国を過大評価していても、正しく日本を評価できないことを恥ずかしく思う。
脳裏には、どこか後ろめたい国粋主義の鬼火が漂っている。
だが、韓国人や中国人とて、自国を過大評価せずに、正しく自国を見つめる目を持っているのだろうか。
「中華思想」、それがあなたの脳裏に漂う恐ろしい鬼火である。
あなたは、あなたの脳裏に漂う恐ろしい鬼火を一度でも意識したためしがあるだろうか。
どんなに時代が変わろうと、人間の有限な精神は相変らず自己中心的なプトレマイオス世界観にどっぷり浸っているのである。
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私は、汗牛充棟とまではいわないが、相当読書好きな人生を送ってきたと思っている。
もちろん、人間ひとりが一生の間に読める本の分量などたかが知れている。
それを承知で、時間の許すかぎり自分の興味を引く本をたくさん渉猟してきた。
その中でやはり、多様な人間性を描写する文学作品が圧倒的に多かった。
アラン・ポー、メルヴィル、スタインベック、ヘミングウェイ、さらに現代アメリカの推理小説やSF小説は少なからず読んできた。
SE(システムエンジニア)である私は、もともとSF小説が好きだった。
しかし、どうも私の精神に、アメリカ文学はさほど感動をもたらさなかった。
むしろ、プーシキン、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキー、ソルジェニーツィン(少なくとも私は彼らの熱心な読者ではなかった)などのロシア文学の方がはるかに、私の精神に直接訴えるものがあった。
これは、私の偏見というよりも、私の気質がロシア文学に親近感を抱くからだろう。
私は、自らの職業に反して、徹底して合理的であるよりも、どこか非合理な世界に救いを求める気質があるようだ。
そのアンチノミー(二律背反)を私は否定しない。
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