随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−86
私は、数学あるいは物理学を決して軽視してはいない。
しかし、数学あるいは物理学が哲学と同等のものと見なされることには大反対である。
人間は理性一辺倒のロボットでもチューリングマシンでもありえない。
人間は、数学あるいは物理学の法則を知っていても、必ずその法則を遵守するような合理的行動を選択するわけではないからである。
合理的、理性的、機械的…、しかし人間の精神は決まって無駄な努力や余計な道草を選ぶものである。
人間の精神は、分かりきったことを再度繰り返すこともあれば、分かりきったことを全く無視する行動もとれるのである。
私は、ただ貯蓄の数字を殖やすために生きているのでもなければ、ただ住宅の広さを測るために生きているのでもない。
自分が一生を賭けて信じるものが見つかれば、非人間的な合理性など打ち捨てて、荒野をさまよう狂人になってもかまわないのである。
哲学が、数学あるいは物理学と根本的に違うのは、人間の非合理性をも受け入れることにある。
人間は、合理的な論理で神は証明できない。
しかし、非合理な信念で神は証明できる。
★
☆
人はなぜ電車に乗るのだろう?
電車は都会の棺おけだ。
時間がくれば、プラットホームの誰もが乗り込む。
そして、電車が出たあと、ホームから人影が消える。
電車は昨日と同じ人を運んではいない。
去年と同じ乗客はもう何処にもいない。
★
☆
人は推理することを一生涯怠ってはならない。
動物の中で推理する能力を与えられているのは人だけだ。
「洞くつの中に年老いたライオンがいて、その洞くつの前にたくさんの動物のあしあとがついている。それを見た賢いキツネは、洞くつに近づくのをやめた。なぜか、推理していただきたい」
このイソップの寓話は世界最古のミステリとも呼ばれている。
賢いキツネは次のように推理した。
「洞くつにたくさんの動物が入っていったあしあとは残されているが、出てきたもののあしあとは一つも見当たらない」
だから、洞くつに近づくのは危険である。もちろん、賢いキツネは人の推理である。
「動物のあしあとが見える」だけでは推理にならない。
「動物のあしあとは、必ずその向きが分かる」と推理することが重要なのだ。
★
☆
宇宙や放射線や生物や病気など、外界には実にいろんなものが存在している。
感覚やひらめきや思い込みや計算などによって、人は外界の存在を何とか把握しようと試みる。
しかし、人はその存在をそっくりそのまま把握できない。
人の感性や理性には個人としての限界があるからである。
その限界を補うために、人は外界の存在を言葉に置き換える。
観念や概念によって、自分の把握したものを他人に伝えようとする。
観念はより主観的な言葉で作られたものであり、概念はより客観的な言葉で作られたものである。
観念は宗教に近く、概念は科学に近い。
しかし、概念はしょせん外界の抽象化であり、存在そのものではない。
人は、宗教によっても、科学によっても、外界の存在を完全に把握することはできない。
クルト・ゲーデルの「不完全性定理」は、人の感性や理性の限界を冷徹に問い続けた成果である。
言葉上の矛盾やパラドックスに遭遇したとき、人が「何か変だな」という感じを抱かなければ、「不完全性定理」は無用の長物と化す。
人が「何か変だな」という感じを抱くかぎり、外界はつねに謎に満ちている。
次ページへ
前ページへ
目次へ