随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−85

今、私の脳裏に「捨身飼虎」という古めかしい言葉が重い意味をともなって反響している。
その言葉はくりかえし精神の表てから深みに沈殿し、分厚い層をなしてゆく。
「捨身飼虎」は釈迦前世のサッタ太子の物語である。
「ある日、サッタ太子が通りかかった崖下に、飢えた子連れの母親虎がうずくまっていた。見るからに、もう何日も餌にありつけず、子虎に与える乳も出ないほど痩せ細っていた。そのことを悟ったサッタ太子は、自ら崖下に身体を投げ出し、母子虎の飢えを救ったのだった。」
私は直接拝見したことはないが、奈良の法隆寺(七世紀初めに建立)に安置されている「玉虫厨子」の側面にはこの「捨身飼虎」図が描かれている。
私は、今までこの貧相な身体を養うために、どれほど多くの生き物を犠牲にしてきただろうか。
そのことをつくづく反省するたびに、「はたして私のこの身体は飢えた虎を救うだけの価値があるだろうか」、と思い悩む。
さんざん他の生き物を犠牲にして、自分だけは安楽死を願うなど、同じ生き物として傲慢この上ないことだ。
あなたの生命が大事なら、それを養うために「捨身飼虎」となってくれた別な生き物のために恩返しをしてもいいのではないだろうか。
宗教的な殉教などというのはおこがましい。ただ生けとし生けるものへの憐れみだけなのだ。
自分が生きのびるために、やむなく他の生き物を食べたことへの贖罪である。
ほんとうに献血するような気持ちで、「捨身飼虎」に我が身をささげることができたらいいのに。


ひどく傲慢な見方かもしれないが、一人一人の人生の収入と支出とでバランスシートを作ったとき、哲学者のほとんどは、支出過多で収入の乏しい人生を歩んだのではないだろうか。
キルケゴール、ショーペンハウアー、シュテルナー、ヴェーユ…みんな私の好きな哲学者ばかりだが。
しかしながら、彼らのどの哲学も、彼ら自身でけっして商品化されなかったことが、救いである。
商品化された哲学は、もはやフィロソフィ(愛智)ではない。


「昨日について考えること」も、「明日について考えること」も、「生について考えること」も、「死について考えること」も、今を生きている人間にとっては、すべて人生の暗号を解く楽しみのひとつではないのだろうか。
「生」と同じように「死」がなければ、人間にとってすべての楽しみは無意味である。
「死」は生れ落ちたときにすべての人間に与えられる暗号カギなのではないだろうか。


私は酒好きである。これは毎晩の楽しみのひとつである。
しかし、タバコは二十代でやめた。ただ私の身体に合わなかったからである。
といって、タバコを吸うひとを嫌っているわけではない。
ひとは誰でも楽しみを持つべきだと思っているからである。
楽しみは善にも悪にもなりうるが、人生を支える基本的なテコでもある。


数学の世界には「完全数」という奇妙なものがある。
1とその数のすべての約数の和が等しい数のことである。
たとえば、6は約数が2と3、したがって、6=1+2+3は完全数である。
同様に、28、496、8128、33550336、8589869056なども完全数である。
こんな奇妙な数を提唱したのは他ならぬピタゴラスであり、またユークリッドはどのような素数で完全数になるかを証明したといわれる。
しかし、現代にいたるまで、完全数の実用的な使い道はひとつも見つかっていない。

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