随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−84

人間には確かにすばらしい想像力が与えられている。
それが、宇宙という宏大なキャンバスに、すばらしい芸術や科学や思想を描き出してきた。
しかし、そのキャンバスに描き出したものは永遠ではなく、一時しのぎの幻影でしかないことを認めたがらない。
プラトンからアインシュタインまでも。
人間とは何か? 永遠を夢見る有限な動物である。

−−スヴィドリガイロフは物思わしげにじっと坐っていた。
「どうでしょう、もしそこには蜘蛛か何か、そんなものしかいないとしたら?」と彼はだしぬけにこう言った。
『こいつは気ちがいだな。』とラスコーリニコフは考えた。
「われわれは現にいつも永遠なるものを不可解な観念として、何か大きな大きなもののように想像しています! が、しかし、なぜ必ず大きなものでなくちゃならないんでしょう? ところが、あにはからんや、すべてそういったようなものの代わりに、田舎の湯殿みたいなすすけたちっぽけな部屋があって、その隅々に蜘蛛が巣を張っている、そして、これが即ち永遠だと、こう想像してごらんなさい。実はね、わたしはどうかすると、そんな風のものが目先にちらつくことがあるんですよ。」
  ドストエフスキー 『罪と罰 第四編』


今、稲妻がよぎった。まもなく雷鳴の大音響が天地を揺るがす。
あまり好きな気象ではないが、雷はじつにさまざまなことを考えさせてくれる。
2001年5月16日午後9時半ごろ、雷鳴がとどろき、豪雨が水戸を襲う。
私は、カーテンを閉めた部屋にいて、講談社学術文庫『神さまはサイコロ遊びをしたか 宇宙論の歴史』小山慶太著を読みふけっている。
なぜ、今この時この場所で私のいる宇宙に激しい雷雨が起こっているのか?
150億年を経た宇宙は、時間とともにエントロピーが増大し、激しい運動はどんどん中和され、穏やかな老成した宇宙になってゆくはずではないのか?
伝統的な熱エネルギーの解釈から見たなら、1000年前の水戸よりも、100年前の水戸よりも、現在の水戸の方がずっと雷のエネルギーは平衡状態に近づいて小規模になっているはずではないのか?
しかし、古代も現代も雷のエネルギーはほとんど変わっていない。
そして、現代物理学も気象学も雷がいつどこで発生するかを正確に証明できない。
それは局所的な、特殊な気象であるから。物理学や気象学や天文学は局所的な、特殊な現象をたいてい無視している。
ほとんどの物理学や気象学や天文学の理論は、大局的で統計的で確率的な説明しかできない。
しかし、人間がほんとうに必要なのは、局所的で個別的で現実的な説明である。
だから宇宙論は、実を言うと人間が希望的観測で描き出した辻褄あわせの理論に過ぎない。
二十世紀の天才物理学者アインシュタインの相対性理論も辻褄あわせの理論なのだ。
おそらく現実の宇宙は少しも穏やかな老成した姿に向かってはいないだろう。

−−かつて、時間と空間は独立の絶対的な概念と考えられていた。無意識の前提として、そうみなされていた。ところが、相対論の確立により、時空は一体化され、相対的な概念へと変化した。また、量子力学の確立により、時空は不確定性(ゆらぎ)を伴う物質量へと移り変わってしまった。
そうなると、一般相対理論と量子力学の融合が成功した暁には、時空が再び、さらなる変貌を遂げたとしても、それほど不思議はないかもしれない。
我々の感じる時間と空間が消滅してしまうプランク時間の向こう側にある世界は、時空をつくり出す源であった何か未知の物質量によって記述されるのであろう。話の順序を入れ替えれば、プランク時間を突破したとき、宇宙には時空が生まれ、同時に、光速、プランク定数、重力定数といった物理の普遍定数も、いまある値に設定されて一緒に飛び出してきたのである。こうした普遍定数に規定されている物理法則に従って宇宙は進化し、今日の姿にたどりついたものと考えられる。
  小山慶太 『神さまはサイコロ遊びをしたか』


私が希望する物理学はつぎの通りである。
「直線や平面や均等空間をいっさい使わずに物理学を構築すること。
 曲線や曲面や曲空間(ゆがんだ空間)に基づいた物理法則が最も正しい。
 しょせん、直線や平面や均等空間の物理法則は、そのごく特殊な例に過ぎない。」

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