随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−83

わたしが、カミユ、メルロ・ポンティ、サルトルなどフランスの実存哲学に惹かれるのは、やはり「人間の限界を誤魔化して、たやすく神の御名を持ち出さないこと」という信念の類似を強く感じるからである。
特に、メルロ・ポンティの「知覚の現象学」はわたしが最も敬愛する哲学である。

−−メルロ・ポンティの回想によれば、彼が学生だった頃のフランスで最も権威をもっていた哲学思想はレオン・ブランシュヴィックの思想であった。彼はこの新カント主義者ブランシュヴィックを高く評価していたが、神のごとき視点から世界を構成する理性を前提としたその観念論には強く反対していた。サルトルの回想によれば、メルロ・ポンティは、はるか高みから神のように人間と自然を見おろしてそれらを普遍的な概念の対象とするような哲学や科学に対して深い不信感を抱いていた。そしてこのような「上空飛行的思考(pensee du survol)」に対する批判は、後のメルロ・ポンティの哲学の基本的な主題となった。
  村上隆夫 『メルロ・ポンティ』

人間は観念論を振りかざすことによって、自分はあたかも神の視点を与えられたような傲慢な錯覚に陥りがちである。
一度も上空飛行をしたこともないくせに、観念論の翼でたやすくいつでも上空飛行できるかのように思い込むのである。
しかし、あなたの足もわたしの足も生まれながらに、いやおうなく重力の足かせを身に付けているのだ。
そのことから卑怯にも目を背けてはならない。
人間が生きるということ、それは唯一自分に与えられたパースペクティヴを背負うこと。私のこの有限な視線は、生まれてから死ぬまで、だれにも譲ることができない。


世間はゴールデン・ウィークの真っ最中。
誰も訪れる人がいない孤独な五月三日。
今日は私の五十歳の誕生日。
ひとりアパートに居て、人名辞典を繙読。
人間五十年リストの人材調べ。


哲学、それは考えることを運命づけられた人間の思想劇である。
舞台の上では、誰もが個性的な役を演じることを要求された俳優である。
二十世紀初頭は、ニーチェの提出したニヒリズムの問題や、アインシュタインの提出した相対性理論の衝撃によって、哲学界も大いに活気づいていた。
さまざまな個性を持ち、さまざまな主義主張する巨人が出現してきた。
しかし、1980年にサルトルが退場してから、役者はめっきり小粒になってしまった。
思想劇は、世界恐慌のような不況にあえいで閑散としている。
二十一世紀初頭、哲学を盛り立てる生命の問題や科学の衝撃は数え尽くせない。
新しい個性を持った思想の巨人はいつ現れるのだろうか。


生まれたときからの精神薄弱は別として、分別のある年齢に達してから発病する精神分裂病などは、何らかの心理的で悲劇的なきっかけによって、人間性を徐々に蝕んでゆく実存的な病いである。
発病した彼らには、生きるための目的が見つからないのだ。暗鬱な無気力に落ち込むだけ。
あるいは、誰かが自分の生きる目的を奪い去ったと思い込んで、抑えきれないほど暴力的になる。
それが高速バスジャック事件を引き起こした少年の精神を蝕んだ実存的な病いではなかっただろうか。


人間は、歳をとるごとに、能力が衰え、価値が低くなり、存在が臭くなるなることを、思い知らされる。
他人の目つきによって、嫌でもそれを思い知らされるのだ。
自分が期待しているほど、他人は自分の能力を評価してくれないし、価値を認めてくれないし、魅力ある存在だと見なしてくれなくなる。
そのことを実直に受け入れるかどうかによって、賢明な老人になるか、頑固な老人になるかの分かれ道になる。
つまり、老人も「人間的な、余りに人間的な実存の問題」を免れることはできないのだ。

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