随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−82
人間は、あらゆる分野において差別したがる動物である。
時代とともに新たな情報は必ず新たな差別を生み出す。
この差別は商業主義と結びつき、特定の者に少なからぬ利益をもたらす。
個人の持つ遺伝子の情報も、遺伝子診断によって新たな差別を受ける。
21世紀の人類の最高の情報は、疑いようがなくヒトゲノムである。
21世紀は、ヒトゲノムを基盤にした「優生学」がまたぞろ復活するだろう。
どんな大義名分を唱えようと、優生学はしょせん差別を基盤にした学問である。
そして、その基盤は決まって恐るべき偏狭な偏見に満ちている。
誰一人本当に優れている事と劣っている事とを判別できないにもかかわらず。
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☆
最近になるまで、人間の身体のなかの多くの器官が、先祖からいやおうなく引き継がれてきた進化上の器官であり、もはや役に立たない「痕跡」としての器官もある、と考えられてきた。
扁桃腺や虫垂などの器官はその最たるものである。したがって、なにも病気にかかっていないにもかかわらず、小児科医が無造作に扁桃腺や虫垂を切り取ってしまうこともあった。
しかし、細菌学や免疫学が発達するにしたがって、扁桃腺や虫垂がじつは身体の防衛機能に重要な役割を果たしていることが分かってきた。
とかく人間は、医学的情報においても偏見や差別に陥りやすい。
たとえば、ノーベル賞級の医学者が、「男の乳首は不要な器官であり、あればかえって癌に罹りやすい」などと唱えたら、早まって乳首を撤去する男が出てくるだろう。
だが、医学が発達して、乳首や胸腺は白血球の抗体を作る上で大切な役割を果たしていると知ったなら一体どうするのだろう?
つい数十年前まで、脳のほぼ中央に位置する「松果体」は、何の役にも立たない進化の結果としての痕跡にすぎないとみなされてきた。
しかし、それが1960年代の研究によって根底から覆された。
松果体が、セロニトンからメラニトンと呼ばれる物質を生産し、脳が正常な機能を果たすために必要な化学伝達物質を供給していたのである。
さらに、松果体はホルモンに働きかけて生殖機能に重要な役割を果たしていることも明らかになった。
脳内の化学伝達物質の役割など知らなければ、人間は早まって松果体すら摘出していたかもしれない。恐ろしいことだ。
ヒトゲノムは基本的に23対の染色体からなり、染色体は長いDNA分子から成り立っている。しかし、DNAの全部が意味のある遺伝子ではなく、そのほとんどは繰り返しやランダムな配列にすぎない「がらくたDNA」と呼ばれる。恐ろしいことだ。
それは現在の知識で、がらくたに見えるだけであり、将来もっと重要な役割をになっていることが判明するかもしれないのだ。
現在の偏狭な知識に振り回され、取り返しのつかないバイオテクノロジーに発展しないことを、私は心から願っている。
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現代は、バーチャル・リアリティ(仮想現実)が流行している。
高速コンピュータを利用したゲームや株式投資、バーチャル手術やフライト・シミュレータなど、仮想の世界でさまざまな体験ができる。
そして、失敗すれば何度でもリセット可能である。
だが、現実の世界はリセットがきかないたった一回きりの体験である。
だから、人生はコンピュータ・グラフィックスでは決して描き出せない絵画のようなものである。
それはついに完成することのない冒険的な素描画である。
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−−歴史の企てはすべて、冒険の部分を含んでいる。(しかもさらに、人間は身体をもっているがゆえに、このような人間が歴史のなかで行為する際におこなう知覚もまた、つねにパースペクティヴ的であって)開かれそして未完結な意味しか与えないのである。
メルロ・ポンティ 『弁証法の冒険』
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