随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−81
「偏見」というひとつの言葉が、浜辺の汀線のように寄せては返し寄せては返し、飽くことなく生涯私の思想を揺さぶり続けた。
実際、私は大した思想をもっていない。
しかし、「偏見」、この言葉を地球上のだれよりも真剣に考えたと自負している。
人間は、いつ自分の姿を正当に見るのだろうか。
「偏見」=「原罪」、いったい誰がここまで真剣に自己を問いつめるだろうか。
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1886年、フランスで一冊の本が出版されるや、大変な評判を呼び、その年のうちに10万部を売りつくすベストセラーとなった。
本のタイトルは『ユダヤ化されたフランス』、著者はエドアール・ドリュモン、内容はユダヤ人排斥論だった。
本が売れた背景には、ヨーロッパにおける根深い人種偏見と、白人優越主義の動揺、その理由が強欲なユダヤ人にあるとするこじつけだった。
また、それ以前に、ジョセフ・アーサー・ド・ゴビノーの書いた『人種の不平等』という本も評判になっていた。
人間の歴史や思想の根本には抜きがたい人種の差が横たわっているとして、ゴビノーは、白人が一番すぐれた人種であることを科学的に立証しようとしたのである。
独断的理論が科学のよそおいで提出されると、それに同調する政治家や文学者が必ず現れる。
ゴビノー、ドリュモンの本が、やがてフランスの世論を二分するドレフュス事件につながってゆくのである。
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1894年12月、フランス陸軍内部で、スパイ事件が発生した。
もっとも有力な容疑者は、ユダヤ人のアルフレッド・ドレフュス大尉35歳だった。
事件の発端は、パリ駐在のドイツ軍武官マックス・フォン・シュワルツコッペン大佐あての1通の手紙が、フランス軍参謀本部の手に入ったときである。手紙は軍事機密を数多く列記し、代償を要求していた。参謀本部は、手紙の筆跡が似ているという理由で、ドレフュスを逮捕し、軍法会議にかけた。
法廷が証拠不十分でドレフュスを釈放しようとしたとき、参謀本部の情報将校ユベール・ジョゼフ・アンリ少佐が思いがけぬ証拠品を持ち出した。イタリア大使館付き武官パニッツァルディがシュワルツコッペン宛てに出した封書で、そこには、フランス売国奴の名が”あの汚いイヌのD”と記されていた。
ドレフュスは有罪となり、軍籍を剥奪され、悪魔島に終身流刑となった。
判決から2年後、軍の機密が相変らず洩れていることがわかり、参謀本部はピカール中佐に調査させた。しかし、調査を続けるうちに、ピカールはドレフュス事件に疑問を抱き始めた。「スパイは別にいる。ドレフュスは無実だ」
それを知った軍部首脳は、一人のユダヤ人よりも軍の名誉を守ることを選び、ピカールをチュニジアの僻地に飛ばした。
ドレフュスは終始無実を主張し、新資料の発見とピカール中佐のエステラジー真犯人説によって、事態はフランス共和制の危機ともいうべき政治問題に発展した。
真実を白日の下にさらしたのは、アンリ少佐自身だった。彼は、パニッツァルディの封書を偽造し、ピカールの調査を知って、ドレフュス事件の記録を抹消し、証拠を隠滅しようとした。ところが、それ以前にピカールはすべての記録を写真に納め、友人の弁護士ルブロワに託していた。
アンリは逮捕され、罪を自白して自殺した。その間に、本物のスパイであるエステラジー少佐はイギリスへ逃亡してしまった。
1906年、ドレフュスの冤罪は晴れて名誉を回復し、軍役に復帰し、レジョン・ドヌール勲章を授けられた。
ドレフュス事件では、共和主義者・人道主義者・自由主義者などの再審派と、反ユダヤ主義者・国家主義者・軍国主義者などの再審反対派とに分かれて闘った。
人道主義者のリーダーが作家エミール・ゾラであり、国家主義者のリーダーが作家モーリス・バレスだった。
バレスは、「フランスでは、フランス人が先頭に立って歩くべきだ。外国人はその次である」と主張して、排外主義と反ユダヤ主義を吹聴していたのである。
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