随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−73
私は確信している。
マクロの宇宙を扱う一般相対性理論よりも、ミクロの宇宙を扱う量子力学のほうが、はるかに不思議な現象を含んでいる。だからその理論はより正しい。
ハイゼンベルクの不確定性原理は宣告する、「あなたは予言することができない。またはすべてのことを知ることができない。」
でもこれは、人間の現実認識とまったく一緒ではないだろうか。
たとえばこのように言い換えると、「最初にどの細胞が癌を発症するのか予言することはできない。または人間は寿命の終わりを知ることができない。」
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言葉は人間の世界観に深く密着しているように思われる。
人間は世界のすべてを言葉で表現し、言葉で表現できない世界は存在しないも同然と見なしている。
だが、言葉は人工の産物であって、けっして世界そのものではない。
世界が人工の産物でなければ、世界と言葉が全くイコールになることはない。
人々は科学も文学も究極において人工の産物であることを知っている。
しかし、現代の優れた科学者であっても、文学者との間に横たわる絶望的なギャップを埋めるすべを知らない。
科学者の明証的な精神は、文学者の瞑想的な精神をついに納得させることができない。
文学者は科学者が本質的に人間を捉えていないと非難する。
科学者は文学者が本質的に世界を捉えていないと非難する。
たとえばドストエフスキーは、魂を救うこともできない科学を軽視していた。
また、ケルヴィン卿は、「宇宙の熱的死」を唱えて、哲学に衝撃を与えた。
二十世紀の物理学的大革命と世界観の拡大においてもそのギャップは拡がるばかりだ。
どちらもフィクションでありながら、依って立つ世界が違うのである。
どちらかが間違っていて、どちらかが正しいというのではない。
どちらも重要なフィクションなのである。
おうおうにして科学は現実であり、文学は虚構だと考えられがちである。
しかし、科学も文学も言葉で表現する限り、究極的に人工の産物であり虚構であることを免れられない。
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人それぞれに世界は違っていてもかまわない。
しかし、人が美を感じる心を喪わないかぎり、世界は存在する。
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よく使われる比喩だろうが、何処へ行くのかはっきり知らされず乗せられた電車、それがわれわれの人生である。
電車が脱線事故を起こして大勢の犠牲者が出ることもある。
途中で自ら決心して電車から飛び降りる人もいる。
災害、事件、事故、病気、戦争、伝染病、自殺の衝動、それらの危険なトンネルを無事くぐり抜けても、永遠に走り続ける電車などない。
いつか一人一人の終着駅が待っている。
東嶋和子著『死因事典』(講談社)は、自分の終着駅をいろいろと考えさせてくれる。
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人生の目的、大金を稼ぎたい、美味しいものをたらふく喰いたい、豪華な屋敷に住んで人一倍長生きしたい…。
がしかし、ショーペンハウアーに言わせると、「なに、この世で長生きしてみたところで、緩慢な自殺を試みているのと同じことだ。」
誰かこれに反駁する言葉をお持ちだろうか。
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