随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−71

「時間が濃密になるにつれて、空間が希薄になる」、そんなエルゴード理論みたいなものが実生活にあるのだろうか。
年齢とともに、私は自分の住む空間の広さを持て余すようになった。
時間が残り少なくなるにつれて、いっそう空間が私の存在にとって希薄で広漠と感じられてくるのだろうか。
人工的な都市や高層ビルやハイウエイなどはとくに広漠としたものに思える。
血気盛んなときは、時間を持て余し、自分の住む空間がひどく狭く窮屈に感じられたのと好対照である。
狭い家庭や地域から抜け出し、もっと広い都市へ、海外へ、と仰望したものだ。
若いときは、広大な未知の山野のすみずみまで征服したいと思った。
しかし今は、広大な山野の狭い岩場の一隅で、私は自分の存在の小ささに打ちのめされている。
森の木立も、川の流れも、風の音も、ただただ私の孤独を際だたせる。
自然のままに移りゆく木や水や風に対して、霊長類である自分がついには羨望しなければならないとは…。


さまざまな言葉に接しているため、印象的な言葉だが、それが誰の言葉だったか、思い出せないことも多い。
たとえば、「人は病いから癒えることはない。ただ病みつつ生きるだけだ」と言ったのは誰だっただろう。


私は生まれてこの方、一度も神を目撃したことはないが、おびただしい虚無は目撃したことがある。
虚無を目撃したことがないという人は、他人を精神ではなく物体と見なしているからである。
私が目撃した虚無というのは、他人が死ぬと、その精神世界のすべてが失われてしまうということである。
私の精神の奥底では、あり得ない神よりも、あり得る虚無を信じる。


人間が他人を即物的に扱えることから、戦争犯罪などの大量虐殺が引き起こされる。
「直接存在」は愚かにも大量の「間接存在」を物体と見なすことができる。物体は精神を持たない、と見なすことができる。
「直接存在」は、すべての「間接存在」の喜びや悲しみや苦しみを無視することができる。だから、大量に即物的に処理できるのである。
バイオテクノロジーのように、人間を大量に即物的に扱う科学の未来に待っているのは、果たして何だろうか。
造物主である科学者は、被造物の喜びや悲しみや苦しみを予想できるのだろうか。
そのとき未来の科学者は、果たして自分が何をやろうとしているのか、はっきりと理解できるのだろうか。
私はそうした未来の科学者に、心をこめてシモーヌ・ヴェーユの箴言を贈りたい。
彼女の箴言には、繊細な意味が恩寵のように宿っている。
−−多くの人間たちのなかで、われわれにとって完全に見分けのつくのは、われわれの愛する人びとの存在だけである。
  シモーヌ・ヴェーユ 『重力と恩寵』
人間はひとたび即物的に物事を判断すると、あらゆる恩寵が見えなくなってしまう。
愛してもいない人びとがたとえ百万人いても、私には何の意味もない、ただの即物的な集団にすぎない。
われわれは果たして科学の中に愛する人びとの存在を完全に見分けることができるのだろうか。

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