随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−69

私はどちらかというと、仏教を宗教としてではなく哲学として把握しようとしている。
だから、原始仏典の『スッタニパータ』や『ダンマパダ』、あるいは禅宗の『維摩経』や『正法眼蔵』に親しみを覚える。
逆に、弥勒菩薩や阿弥陀如来といった超越的な諸仏が活躍する大乗経典はまゆつば物として敬遠してきた。
このことは、実は私の受け入れ体勢がひ弱であることを暴露している。
私の精神ネットワークは、現実的な哲学を掬いとるのに精一杯で、とても超越的な宗教を受け止める余裕がない。
私の脆弱な精神ネットワークで宗教という重荷を受け止めようとすれば、網目がたちまちボロボロに破れてしまう怖れがある。
私は宗教が嫌いなのではない。私の精神に宗教はあまりに重すぎるのである。
あたかもそれは、精神ネットワークを重力崩壊によって破綻させるブラックホールのように思える。
私の精神は究極的な破綻をどうにかして免れたいと必死にもがいている。
だから私は、日々自分の分際を弁えた理詰めのネットワークを張り巡らすことに懸命になっているのである。


今、大正から昭和にかけて発刊された『大正新脩大蔵経』の電子データベース化が行われている。
その一部はインターネット上でも読める。しかし完成までにまだ数年の歳月が必要だという。
『大正新脩大蔵経』は、高楠順次郎・渡邊海旭監修で、仏像図まで含めると全100巻、ただし1巻の厚さは1千ページ以上。
インドや中国や朝鮮や日本の経典が約3千巻、字数にすると約1億2千万文字という膨大なデータ量に相当する。
当然、ほとんどが漢字である。日本が世界に誇る貴重な文化遺産でもある。
たとえ毎日1万文字ずつ読んでも、1万2千日、約33年かかる。
1日1千文字すら無理な私には、一生涯かかっても全巻を通読することなど不可能だろう。
もちろん、『大正新脩大蔵経』を全巻通読したからといって、仏教全体を理解したことにはならない。
仏教は、「智慧の完成(般若波羅蜜多)」を求めているが、「知識の完成」を求めてはいないのである。
このことを、済度しがたい凡夫である有限な我が身の言い訳にしよう。


この世界はどこもかしこも人間の一方的な価値判断に満ちている。
この世界のどこを切り取っても、人間の価値判断に染められていない分野はない。
しかし、人間はときとしてそれが自らの一方的な判断にすぎないことを忘れている。
自然界を最短距離や最小運動量などを基準にして法則化していることもその一方的な判断である。
人間の観測に限界があるため、最短距離や最小運動量などの基準を導入しなければ法則化できない。それはあくまで人間の都合である。
しかし、この世界がどこもかしこも有限な人間の都合に従って動いているなどとはとても信じられない。
もしも神が自然界を法則化する必要があったなら、最短距離や最小運動量などではなく、無限距離や最冗長運動量などを基準とするかも知れない。
それは神にとって少しも不都合とはならないだろう。
人間の食事が快適であり、排泄が不潔だと思うのは、人間の好悪の判断にすぎない。
排泄が不潔な行為だからといって全面停止できるはずもない。
生きてゆくために、どちらも人間には不可欠な生理である。
あるいは人間は、肉食獣の食事は残酷で、草食獣の食事は穏健だと見なす傾向がある。
しかし、肉食獣は草でその命を養えない。それは人間の価値判断を超えた現実である。
人間の価値判断を強制されたら、この世界から肉食獣はとっくに絶滅していただろう。
人間は、この世界を人間の価値判断で埋めつくしたいと思っている。
あるいは埋めつくせると傲慢に思いこんでいる。人間は神になりたいと望んでいる。
だが、その神は自らの有限な運命のゆえに、あわただしく食事し排泄し、否応なく老いて死んでゆく。
この世界は、人間の価値判断をアウフヘーベン(止揚)すればすべて事足りるような仕組みにはなっていない。

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