随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−68
今、『数学100の発見』(日本評論社)を読んでいる。いや、ざっと眺めているといったほうが正しい。
フィボナッチ数列、偏微分方程式、フーリエ解析、非ユークリッド幾何学、位相空間…。
書店でたまたま目に入って買ったのだが、案の定その内容の難解さに苦心惨憺している。
私にとって数学の本は二つの顔を持っている。
一つは、夢のように魅惑的で何でも叶えてくれそうな顔。
もう一つは、あまりに冷ややかで厳格で近づきがたい顔。
たとえば、円周率を誰よりも詳しく計算しようとした数学者ルドルフには、「π」は夢のように魅惑的な存在であったに違いない。
しかし、現代のスーパーコンピュータではじき出された1000万桁の「π」の数字の羅列は見る者にとってただ近づきがたい存在である。
数学は定理の美しさを保証してくれても、定理の正しさを保証してはくれない。
数学は本質的に真理を追求する学問ではないからである。(真理は、思想や宗教のカテゴリーである。)
だから、私にはいっそう数学が魅惑的に思えるのかもしれない。
★
☆
一週間が、一ヶ月が、一年がなぜこうも足早に過ぎ去ってゆくのだろう。
私の依拠する時空座標は、歳とともに加速しているのだろうか。
これが、50歳を目前にした私のとまどいに近い実感である。
私は、自分が少なくとも現代の常識人であると思っている。
そして、常識人は天国や来世という異次元の時空座標を微塵も信じてはいない。
天国や地獄は幼児のおとぎ話であり、終末や来世はご都合主義の神話以上のものではない。
現代のありがたい教育のおかげで、常識人は現実と非現実をきっちり区別している。
では、現代の常識人は何を信じているのか?
今、自分が依拠している座標以外の来世はないという現実を信じているのである。
日々、自分が否応なく老いてゆくという現実の座標を、である。
その現実の座標に人生の意義がある。しかし、その現実の座標に人生の救いはない。
社会や科学は、人が生きてゆくための何らかの意義を与えてくれる。
しかし、社会や科学は人を救済してはくれない。
人は誰も、否応なく老い、そして死んでゆく。
社会や科学はそれを止めることも否定することもできない。
現実の座標は、社会や科学をも巻き込んで混沌と流れてゆく。
そして、現代の常識人はもはや、宗教という古めかしい非現実の座標にしがみつくほど素朴でもない。
現世は諸行無常である。だからといって、さっそく仏教に帰依する気にはなれない。
人は皆罪人である。だからといって、キリストの救いを辛抱強く宛てにする気にはなれない。
常識人は、現実の座標で救いのないまま人生の気晴らしに熱中して生きてゆくしかないのである。
そこに、一時的な自己満足はあっても、恒久的な自己充足はないのである。
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☆
無限の思考は人間を神と見なし、ついには虚無にいたる。
すべてが可能である。しかし、一切区別がつかない。
四方八方360度の視野を持つものは、どこにも焦点を持たない。
仮に、人間に無限の座標で物事を考えることが許されるとすれば、善悪も生死も興亡も宇宙も原子も姿も形もない。
一切区別がつかない、これが諸法空相である。
ただし、人間の有限な座標では一切が区別できる、これが現実である。
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☆
人間は世界にとって必要だから生まれてきたのではない。
意味があるかどうかも分からないまま生まれてきたのである。
このことは、人間が今まで生きてきた世界のなかで、冷然と証明されている。
世界が人間に意味を与えてくれないなら、人間が世界に意味を与えなければならない。
だから、人間は人生の確かな意味を問うこともできない世界の殉教者であろうとしている。
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