随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−66
「この世界は考え得る最悪の世界である」というショーペンハウアーの辛辣な言葉に、私は決まって魘される。
もちろんそれは、「人間にとって」というただし書きが必要である。
この世界が最悪な理由をあげたら際限がなくなるだろう。
たとえば、人生の収穫期ともいうべき晩年に、人間はなぜ老いと孤独に苛まれる運命なのだろうか、といった理由。
「神」という幻想を捏造しなければ、生きることが耐えられない世界。
「宗教」という妄想を編み出さなければ、善く生きることができない世界。
人間にとって有りのままのこの世界は、考え得る最悪の地獄なのであろうか。
人間にとって有りのままのこの世界は、考え得る正真正銘の悪夢なのであろうか。
自分が年齢を重ねるにつれて、この世界の多くの不幸なニュースに遭遇するにつれて、私はショーペンハウアーの言葉に同意したくなる。
私は、自分自身が最悪の不幸な存在だとは思わない。
しかし、私の存在するこの世界そのものが誤魔化しようがなく不幸なのである。
不幸の原因は分かっている。
この世界を不幸だと考える人間をこの世界に生みだしてしまったことである。
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戦争はあらゆる善と善がぶつかりあって、歴史上に悪を産み出す。
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何かにつけて他人を傷つけなければ生きてゆけない人がいる。
逆に、他人を傷つけたと分かったとたんに生きてゆけなくなる人がいる。
おそらく人間以外のどんな動物もこんな矛盾した生き方をすることができない。
人間は苦悩の宿命を背負った特別な動物である。
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私の思索や体験は、いつも相対の世界にしがみついている。
相対の世界でしか自己を確認できない。
ヘーゲル哲学の「絶対的に分裂した精神」、あるいは西田哲学の「絶対矛盾の自己同一」という言葉は、確かに怪しげな魅力をもっている。
しかし、私は決して怪しげな言葉の誘惑には陥らない。
「絶対的に分裂した」、「絶対矛盾した」その状態を、言葉面ではなく、人間は本当に体験できるのだろうか。
たとえば、自然数を1から数えて10まで来たが、次の11の代わりに突然−1が現れたとする。
これが絶対的に分裂した状態である。−1でなく−2でも−10でも何でもよい。
つまり、それまでの論理が破綻し、何でもよい世界、何でもない世界が出現する。
その世界では、自己を確認することさえ不可能である。
ヘーゲル哲学や西田哲学が少なくとも論理的であろうとすれば、「絶対的に分裂した」状態や「絶対矛盾した」状態を一度も体験したことはないだろうし、それを確認できるはずもないのである。
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今、世の中に失業者は多い。私もかつて失業者を経験したことがある。
その時、私は自分の無目的無記名に苦しめられた。自分の名刺に職業欄がないのである。
人は仕事をしている時、特に単調な肉体労働をしている時、早くこの仕事から解放されたいと望む。
しかし、いざ本当に仕事から解放され、何もすることがなくなると、自分の仕事に熱中しなかったことを悔やむ。
世の中にいやいやながら仕事をしている人は多い。
しかし、この世の中から何一つ仕事がなくなったら、人は生きる目的を失ってしまう。
人は余暇だけを目的にして生きることはできない。
余暇は決して人の精神と肉体の両方を満足させてはくれないから。
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人はあまりに孤独であると、日常の単純なことしか考えなくなる。
何時に顔を洗い、何時に食事をし、何時に眠るか、といった単純なこと。
孤独を時間という単純なナイフで少しずつ切り刻む。
何も起こらない。ただ自由を切り刻むだけ。
それが自らの孤独を癒す唯一の手段となる。
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