随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−65

私は、世界中のすべてのものを知りたいと願った。
世界中のすべてのものを愛したいと願った。
人は誰でも一度はそんな広大無辺なことを願ってみるものだ。
子供のときは子供の空想で、大人のときは大人の想像で。
世界中のすべての国々、すべての人々、すべての建物、すべての文化、すべての文字、すべての言葉、すべての本、すべての学校、すべての教室、すべての時計、すべてのクルマ、すべての飛行機、すべての動物、すべての植物、すべての山、すべての川、すべての海、すべての岩、すべての氷、すべての雲、すべての星、すべての神、すべての生と死…。
しかし、世界中のすべてを知りたいと願った瞬間、私は世界中のすべてを失っている。
すべての人々を見ようとした瞬間、私は誰一人として見分けることができなくなっている。
広大無辺なすべての存在は、私の焦点からはるかにかけ離れてただぼやけてゆく。
どんなに辛苦して目を凝らしてみても、私は世界中のなにもかも見分けがつかなくなる。
すべての願いは、私の目をのがれ、私の耳をのがれ、私の口をのがれ、私の手をのがれ、ただ煙のように虚しく消えてゆく。
私は世界中のすべてのものから愛することを拒まれ、たった独りぼっちになってゆく。

−−多くの人間たちのなかで、われわれにとって完全に見分けのつくのは、われわれの愛する人びとの存在だけである。
  シモーヌ・ヴェーユ 『重力と恩寵』

多くの人間たちのなかで、あなたはいま完全に見分けのつく存在がいますか?それは誰ですか?


私は、ロボットのことをよく思索の対象とする。しかし実際は、ロボットのことを私はよく知らない。
100万分の1ミリメートルという極微のナノマシン型ロボットから、100キロメートルにもおよぶ巨大な宇宙ステーション型ロボットまで、さまざまなロボットが今後登場してくることだろう。
私が語るのは、私が想像したヒューマノイド型ロボットの姿である。これは人間に似た行動力と頭脳を持つ。しかし、意志や感情まで持つかどうかは保証できない。
人間とロボットについて考えることが、究極的に「生命と物質」について考えることだと思っている。
私の思索は次の一点に集約される。
将来、圧倒的な科学の発達によって、人間とロボットの区別がつかなくなる日が来るのだろうか?もしそうであれば、将来、人間は個性をすっかり喪失してしまうだろう。
私自身は、たとえどんなに有益な存在であろうと、究極的にロボットを愛することはできない。


私は、北国の北海道生まれだが、寒さにはけっこう弱い。
たとえば、11月の暖房のない場所では活動する気になれない。
といって心身ともに寒さが嫌いなのではない。
寒さがなければ、私の精神活動は眠ったままだろう。
理性と情熱は、死に至るまで人間には不可欠だ。
私の偏見によれば、「哲学は寒さから、文学は暑さから生じる」


単調に生きるために努力は必要ないが、単純に生きるためには努力が必要である。
あくびをかみ殺すように単調な生活と、ただひたむきに単純な生活とは違う。
単調な生活には彫刻のような削り屑はないが、単純な生活には大量の削り屑がある。
道元禅師の日常生活は、ただひたむきに単純な「只管打坐」だった。
「身心脱落」の禅を貫いた道元は、どれほど大量の削り屑を排出したことだろう。
だれきった単調な思考と、あきれるほど単純な思考とは根本的に違う。
単調な思考は形や方向を変えないが、単純な思考は自分を変えずに形や方向を変える。
単調な思考は楽であり堕落であるが、単純な思考は苦であり上昇である。
あるいはこうも言える、「単調な思考は悪であるが、単純な思考は善である。」

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