随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−64

私は、理性や感性を含めた人間の住む世界は単一ではなく、多層世界だと考えている。
簡単にいうとタマネギのような階層をもったパラレル・ワールドである。
だから私は、一つの真理、一つの定義、一つの視点でつくされてしまう世界観をもっとも危険視する。
たとえば、数学はそれ自体として有益な世界観には違いないが、単なる一つの世界観にすぎず、それによって人間的なものの総てが説明できるわけではない。
私はやはり、数学の根本にあるのは観念の惰性であると思っている。惰性は良いときもあれば悪いときもある。
数学者は、有限個のものはいうにおよばず、無限個のものまで数えられるという。そのとき、個数ではなく計数という概念を使う。
集合Aと集合Bの計数が同じかどうかは、一対一で対応させてみるとよい。
豆の集合と皿の集合が一致するかどうかは、一枚の皿の上に一粒の豆をのせてみるだけでいい。
たとえ、その対応する計数が無限であっても、一対一で対応するなら、それらの集合は同じ計数をもつとみなされる。
さらに驚くべきことに、一枚の皿に、nの2乗(n=1,2,3,…)粒の豆を載せても、一対一で対応するなら、それらの集合はやはり同じ計数をもつとみなされる。
しかし、ちょっと考えてみると、これらの世界観は確かに数学的には正しいかもしれないが、まったく現実的ではないことが分かるだろう。
一億の一億倍の皿や、一兆の一兆倍の豆など、どんなに世界中からかき集めても現実には存在しないからである。
しかし、数学者はそれらが現実に存在するかどうかに関係なく、それらを数えてしまう。
あるいはまた、地上の人間と、天上の天使とが一対一で対応づけられるなら、天使が存在しようとしまいと、その集合の計数は同じである、というようなものである。
「全体はその部分よりも大きい」というユークリッドの集合論的な世界観もある。
「全体はその部分と等しい」というカントールの集合論的な世界観もある。
どちらかが間違っているというのではなく、数学体系では、どちらもその公理において正当な世界観である。
ただ、一つの公理においてどちらも正しい、あるいはどちらも間違っているということを決めることができないのである。
私が、数学は単なる一つの世界観にすぎないといったのはその意味である。


数学は時空間の関係を記述する学問である。
どんなに抽象化された数式といえど、時空間との関係を絶つことはできない。
そして、仏教的に表現すると、時空間は人間の執着が生み出した仮象にほかならない。
人間の執着があるからこそ、数学は人間のモノサシとして成り立つのである。
けっして人間の外部に、人間を超えた永遠の真理として在るのではない。
ただ、数学のすごさは、それがあたかも人間の執着を超越した真理であるかのように振る舞えることである。
私は、プラトンの定規とコンパスや、ニュートンの微分と積分などを、数学の道具としての意義まで否定しようとは思わない。
しかしそれらはあくまでも道具であって、それらが真理を保証する絶対的なモノサシであるわけではない。
数学は人間の執着が生みだした仮象のモノサシにほかならないのである。
あるいは、そうした仮象のモノサシしか生み出せないところに、人間精神の究極的な限界があるのかも知れない。


数学では、抽象的なイメージはなんとなく分かるが、具体的なイメージがまったく湧かないという概念がよくある。
数学の最も基本である数論からしてそうである。
「実数」、「小数」、「負数」、「虚数」、これらの違いを具体的なイメージが湧くように説明できる者がいるだろうか。

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