随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−63

人間に興味があるから、私は歴史を調べるのも好きである。
しかし、先人によって記録されたすべてが真実であるとは片時も思ってはいない。
人間は真実と同じ量だけの、虚偽の記録を残したがるものである。
とくに、正史とか正伝といったものは時の権力者の自己正当化にすぎないものである。
上は皇帝から、下は庶民まで、人間は何らかの自己正当化をせずには生きてゆけない。
人間としての儚い人生、虚しい存在、退屈な日々が、勢い歴史を華々しく劇的に飾りたがる。
薄陽が射す平穏な毎日よりも、人間は精神の奥底で、快晴かさもなければ雷雨を求めているのである。
人生を心底享楽できれば、歴史の真実などどうでもよい。
自己正当化することが享楽であれば、それをくまなく記録することだろう。
たいていの場合、歴史の真実は、自己正当化の強さとは必ずしも比例しないのである。
ただし、どんな時代にも、他人の批判をゆるさない絶対的な権力者というものは存在しない。
だから、始めから終わりまで自己賛美歌である正史もありえないだろう。
太陽王のような正史正伝にも、必ず人間の有限さ、哀れさが影を落としているものである。


私は、根本的に宗教を信じていないと公言しながら、宗教関連の書物をたくさん所有している。
キリスト教関連の書物もいくらか持っているが、圧倒的に多いのは仏教関連の書物だ。
世界の名著シリーズ『バラモン経典・原始仏典』、『大乗仏典』、『禅語録』(中央公論社)、日本古典文学大系『正法眼蔵・正法眼蔵随聞記』(岩波書店)、日本の思想『親鸞集』(筑摩書房)、『アショーカ王とインド思想』(教育出版センター)、『原初経典 阿含経』(筑摩書房)、『仏教経典散策』(東京書籍)、『修証義入門』(新宿圭文社)、『正法眼蔵』(河出書房新社)、『正法眼蔵随聞記』(筑摩書房)、『白隠禅師 夜船閑話』(大法輪閣)、『禅の思想』(雪華社)、『道元禅入門』(産業能率大学出版部)、NHKブックスシリーズ『原始仏教』、『仏像』、『禅』(日本放送出版協会)など。
もちろん知識の赴くまま長期間にわたって集めたものであり、すべてのページを読破したわけでもない。
私が宗教について持っている知識は、すべてそうした書物によるものである。
いわゆる霊感に撃たれるような宗教的体験は、私にはほとんど無縁である。
それが私の宗教把握の限界だろうと思っている。
しかし、無神論者の私がすべてとは言わないまでも、多少なりとも思想的に共鳴できるものがあるとすれば、道元を始めとする禅宗の教えである。
それもおそらく仏教にいうところの「他生の縁」なのだろう。私がアジアではなく、アフリカに生を受けていたなら、仏教に巡り会うこともなかったに違いない。


−−また言われた。
世間の人は多く、「仏道を学ぼうという気持ちはあるのですが、世は末世であり、人も質が劣っております。わたくしも生まれつきが劣っております。かた通りの修業には堪えられそうもありません。ただ分に応じて、たやすくできることをして仏縁を結び、こんど生まれ代わった時に悟りの開けるのを待ちましょう。」と言う。
しかし、今言いたいのは、この言葉は全く間違いである。仏教で正法・像法・末法の三時期を立てるのは、一応のてだてにすぎない。真実の仏教仏道はそうではない。教えに従って行ずれば皆悟りが得られるのである。釈尊在世の時の僧が必ずしも皆すぐれていたのではない。思いもつかない、世にもまれな、あきれるばかりひどい気持や素質をもった人もあった。釈尊が種々の戒法を分けて立てられたのは、みな、よくない人々や、生まれつきの劣った人々のためなのである。人はめいめい皆仏法を聞いて悟る資格がある。その資格がないと思ってはならない。教えにしたがって行ずれば、必ず得ることができるのである。
心があるからには、善悪を分別することができよう。手足があるからには合掌したり歩いたりに不足はあるまい。仏法を行ずるには、それだけで充分で、素質の上下は問題ではない。人間界に生をうけたものは皆仏道を行ずる資格を具えている。他の畜生などの生命ではできないのである。仏道を学ぶ人は、ただ明日をあてにしてはならない。今日ただ今だけと思って、仏の教えにしたがって行じてゆくべきである。
  『正法眼蔵随聞記 五ノ八ノ三』

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