随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−62
はるか川の向こう岸に美しい花園がある。
美しい鳥たちが舞っている。
その美しいさえずりの声も…。
しかし、騒々しい川の流水の音にかき消されて、鳥のさえずりは聞こえない。
やがて、美しい花園も冷たい川霧が覆いつくしてしまった。
わたしの視界に映る彼岸世界は、いつも危うく心もとない。
わたしは心休まることのない騒々しい宗教などいらない。
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−−眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者には、生死の道のりは長い。
シッダールタ 『ダンマパダ』
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今、孤独なわたしの夜は長い。熟睡することも、夢を見ることもまれになってきた。
50歳に近づいた人生も、少し長く苦しく感じられるようになってきた。
シッダールタの目からすれば、わたしもきっと正しい真理など知らない愚か者のひとりにすぎないのだろう。
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Gate Gate Paragate Parasamgate Bodhi Svaha
掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提 僧莎訶
往く者よ 往く者よ 彼岸に往く者よ 彼岸に全く往く者よ さとりよ 幸いあれ
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私も「般若波羅蜜多心経」は好きである。
それは、仏教が産み出した最高の哲学詩だと思っている。
詩であるかぎり、それを読むひとりひとりによって解釈は異なる。
般若(Prajna)は「智慧」、波羅蜜多(Paramita)は「完成」、心(Hrdaya)は「真髄」、経(Sutra)は「聖典」の意であるという。
しかし、「智慧」も「完成」も「真髄」も「聖典」も、ひとりひとり違った解釈、違った価値を持っている。
誰ひとりとして、それを万人に通用する普遍的な内容で説明することができない。
だから、難解な内容にもかかわらず、「般若心経」はすべての人々に愛され、唱えられ続けているのだろう。
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−−さとりも悩みもいずれも実体はない。だから、さとりを見失うとか、悩みが消え去るとかいうことはない。老いるという考えも、死ぬという考えも、抱いてはならない。もともと、老いるとか、死ぬとかいう実体はないのである。老とか死とかいう考えは、仮象にすぎない。それらは、人間の勝手な考えにすぎず、もともと、これが老とか、これが死とかいうものはない。すべて相対的にものごとをとらえるところから生まれた考えにすぎない。なにが老でなにが若であるのか、なにが生でなにが死であるのか、ほんとうに人間は区別して説明できるのだろうか。
『般若波羅蜜多心経』
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道元禅師の『正法眼蔵』は何度読んでも、何度読みはじめてもやはり難しい。
読みはじめた「現成公按」からして、ほとんど現代語に置き換えることは不可能である。
道元が自在に駆使する仏教用語は、さしずめ現代のハイテク術語に匹敵する。
つまり、新しい論理、新しい観念を表現するためには、結果として新しいテクニカルターム(術語)が必要なのである。
そのときの原典が、じつは古代インドのサンスクリット語である。
古代人は現代人と同じ考え方、同じ生き方をしていたわけではない。
あるいは、古代人の方がはるかに人生に深みがあったのかもしれない。
たとえば、「dharma」、このテクニカルタームは現代語ではいったい何を意味するのだろうか?
現代人はもしかしたらそのテクニカルタームの深みをほとんど理解できないのではないだろうか。
しかし、今から800年前の道元はおそらくそのハイテク術語をもっともよく理解していたはずである。
−−人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。
道元 『正法眼蔵』
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