随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−59

私はいつも決まって基本的な問題のまえで立ちすくむ。
たとえば、私の目に映る色彩とは何なのか?
色彩は、目による恒常的な錯覚である。
その証拠に、白色灯のもとで赤色に見える物体も、オレンジ灯のもとでは緑色に見える。
試しに、オレンジ灯の輝くトンネル内で、赤いクルマを見てみるとよい。
普段、日光のもとでクルマの色が赤く見えるのが正しい知覚なのではない。
もともと物体は色彩を持っていないのだ。
どんな光を反射して、人間の目にどのように映るかによって色彩が決まる。
あくまでも、人間の目が恣意に色を決めているのである。
だが、その一瞬一瞬、どんな光が反射してきたのか、実は誰にも分からない。
人間の目は決して波長検出装置としてつくられているわけではないからである。
人間の目にとって、すべての色彩は相対的である。
同様に基本的だが、よく分からない問題はこの世にいっぱいある。
どこからどこまでが明るくて、どこから暗くなるのか?
どこまで強くて、どこから弱いのか?
どこから美しくて、どこまで醜いのか?
どこまで熱くて、どこから冷たくなるのか?
長い、短い?
速い、遅い?
良い、悪い?
そして、どこまで生きていて、どこから死んでいるのか、実は区別などつかないのではないだろうか。


哲学は少しも難しいものではない。
私は貪欲に多くの食物を求めてはいない。
私の口に心地よい食物だけを求めている。
それが、私のわがままな哲学である。
私の哲学のキーワードは「偏見」。
それを理解してくれさえすればいい。


自己とは何か?人間とは何か?
すべての学問はそこから始まり、そこに行き着く。


−−もとより、運命に威嚇された当初の頃は、理性は狼狽することであろう。襲いかかって来る不幸を、あらかじめ避けるためともあらば、心に浮かぶことは何でもやって見ようとするであろう。大地が人間の足下から崩れ去るとき、理性は、自分自身の創造力を以て、人工的な足場を造ろうと試みるものである。そして、このことが、普通、哲学と呼ばれているものなのである。
  シェストフ 『哲学千一夜』


あなたは自負心が強い方だろうか?
地球はあなたを中心に回っていると、心のどこかで信じているだろうか?
しかし、たとえあなたが死んでも、一匹のハエが死んだのと同じように、地球は何事もなかったかのように回り続けるのです。


中国佛教の真髄、「生不帯来(生まれてくるとき何ものをも帯びず)、死不帯去(死にゆくときまた何ものをも帯びず)」


私は、悲しいことに救いがたい無神論者である。
しかし、よく皮肉をこめて言われることだが、無神論者ほどたびたび「神」という言葉を使いたがる。
ニーチェやカミユやサルトルは、その著作のそこかしこに指にタコができるくらい「神」という文字を書き散らしていたではないか。
事実、「マイ・パンセ」の中にも「神」という怪しげな言葉が一体何百回登場してきたことだろうか。
確かに、無神論者が、たとえ否定するためにせよ「神」について語るのは矛盾している。
矛盾しているのは、人間が何か対立概念がないときちんと首尾一貫して思索できない点である。
とどのつまり、無神論者は、究極的に自己中心的で首尾一貫した有神論者なのである。

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