随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−58

「老醜」という言葉に対して、「老美」という言葉はない。
人は誰でも否応なく老いるはずなのに、なぜ老いることは醜悪なのだろうか?
その価値判断ははたしてどこから来るのか?
生き続けることが、すなわち醜くなることだとすれば、何のために生きねばならないのか?
老醜は、ニーチェのニヒリズムをもってしても価値の価値転換はありえないのか?
それが不可能であるなら、人は根本的にニヒリズムを克服することができないだろう。


私は死ぬまで、決して固定した自画像を求めない。
悟り澄ました自画像は、時間とともに上辺のペンキが乾燥し、やがてひび割れてくる。
悟るということは、自らの老いに対して目を背けることではないだろうか。
「おまえは死ぬまで迷い続ける。おまえは決して悟りを開かない…」
これが、私の魂のささやきである。それが醜悪な魂のささやきであろうとも…。


−−大自然は、自己の創造したものの総べてを、至って組織的に破壊しているのだ。アレキサンダー大王も、プラトンも、ゴーゴリも、プーシキンも、見事な神殿の幾十にも当たる可能性を、それぞれ自己の中に秘めていた自然の偉大なる創造物、人間の無限の数量も、総べては、大自然によって情容赦もなく破壊され、根絶させられてしまったのである。プーシキンに向かって、ねらいを定めたピストルの引金を、冷血にもダンテスが引こうとしていたとき、大自然は、彼の手を決して押さえはしなかったのである。何故、大自然は無為を決めこんでいたのだろう?大自然みずからが創ったものと、人間たちが創ったものとの総べてを、何故、自然は一貫して滅ぼしていくのであろう?最も驚くべき美をも醜悪に化せしめ、最も力強い頭脳をも、もうろくさせ、最も強壮な意志をも、無力に帰せしめるような老廃を、何の理由で大自然は、人間に贈り与えなければならなかったのであろう?また、あらゆる偉大な計画を遮るような死を、人間に与えなければならないのであろう?死と破壊とは、大自然の手から創り出された万物にとって、逃れることのできない終末である。道学者や社会学者なら、このことを忘れてもよいであろう。だが、哲学者は、これを忘れてはいないし、忘れてよいものでもない。
  シェストフ 『哲学千一夜』


私の生命が枯れないかぎり、私はニュートンのように総ての物事を微分的に判断することも、積分的に見積もることもしない。
それは、この世に生命を授けられた幸運を台無しにする。
男は、筋肉の動きをマクロ的に判断して有能なスポーツマンになるわけでもないし、女の美しさをトータルに判断して情熱的な恋愛をするわけでもない。
私の生命はいかなる数学的機械的演算からも逸脱している。


私は、どんなに親しい人であれ、他人をことごとく十全に理解できないことを知っている。
私は、感性にせよ知性にせよ、他人との間に共通項が存在しないことを知っている。
存在するのは、他人との間にあるどうにもならない壁、あるいは心の闇である。
しかし、こんな私でも、他人の孤独な魂だけは感じ取ることができる。
それは、私自身が生きているこの世界で、例えようもなく孤独だからである。


精神が凍えるような肌寒い朝、
中国に住む妻に国際エクスプレスメールを送った、
離婚同意書と離婚届の用紙を添えて。
短い結婚生活、夫婦は心の暗闇にいた。
暗闇の宇宙を星屑のように漂っていた。
そしてついに二人の間に光が射すことはなかった。
あとは、ばらばらの破片となって別々の方向に飛んで行くだけなのだ。


−−連中がふつう運命と呼んでいるものは、たいてい彼ら自身の愚行にすぎない。
  A・ショーペンハウアー

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