随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−57

「人間は確かに過つ動物である」と宣告しているからといって、私はことさら人間の弱さを責め立てているのではない。
このことは断じて誤解して欲しくない。
むしろ、「普遍性」、「必然性」といった人間の限界を超えた狂信的なモラルを、私はとことん嫌気しているのである。
恐るべきことに、2000年に及ぶ宗教は、人間を救うよりも、人間を徹底して蔑んできたのだ。
21世紀に生きる私は、2000年間蔑まれてきた人間に真の人間らしさを取り戻したいのだ。
私の哲学は次の一言につきる、すなわち「人間は過つからこそ、本物なのである。」


−−人間はおのれの永遠なる麻痺から目覚めなければならない。自分が生きているそのカテゴリーの中で物を考えようと決心しなければならないのだ…と。
  シェストフ 『背理の哲学』


シェストフが唱えるように、「自分が生きているそのカテゴリーの中で物を考える」ことがどれほど重要で困難なことか、を本当に理解している人はまれである。
人は有限で不安に満ちた自分のカテゴリーよりも、永遠で確固不動の神のカテゴリーに魅了されたがるからである。
しかし、それは所詮、局部麻酔による一時的な鎮静にすぎないのである。


−−哲学者たちが数千年来扱ってきたすべてのものは、概念のミイラであった。現実的なものは何ひとつとして彼らの手からは生命あるものとしてでてこなかった。崇拝するときには、彼らは殺して、剥製にする…。
  ニーチェ 『偶像の黄昏』


「もしも、賢者の石(絶対的なもの)が一つでもあったなら…」
死すべき人間は今よりも不幸であるだろうか。
それとも、何も考えずに済むから、今よりも幸福であるだろうか。


−−デカダンス(退廃)と戦うことでもってすでにデカダンスから脱け出ているというのは、哲学者や道徳家の側の自己欺瞞である。脱け出ることは彼らの力のおよぶところではない。彼らが、手段として、救済として選ぶものが、それ自身またデカダンスの一つの表現にすぎないからである。彼らはデカダンスの表現を変えるのであって、デカダンス自身を除去するのではない。
  ニーチェ 『偶像の黄昏』


「神聖さは卑劣さに似ている」というのをヘルメスの公準という。
最高の価値は無価値に似る。至上の知恵は無知に似る。
最高の善人は極悪人に似る。至上の悟りは無関心に似る。
そして、全能の神は、この世の悲惨を前にして沈黙している無能者に似ている。


最も単純な疑問、「自分がなぜ男の性または女の性に生まれてきたのか、ということを理路整然と説明できた者が今まで一人でもいただろうか。」


−−死は生殖を必然ならしめる。もし生殖がないならば、死もまたあり得ないだろう。
  A・ショーペンハウアー


−−死すべき運命にある人間が、真理のヴェールをかかげて見ることは許されていない。
  古代エジプトのことわざ


人間は二つのものを同時に所有することはできない。しかも、それは決して対立する概念ではない。
たとえば、「科学と偶然」、「平等と進歩」、「平和と幸福」。
それは所詮、人間の有限さをいやおうなく証明しているのだろう。 

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