随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−56

なぜ私はいわゆる一神教が嫌いなのか。
それは、どんなに唯一の神を讃えようとも、必ず排除の論理が生まれるからである。
何かを絶対視すること、あるいは自己を正当化することから、他者を攻撃し、排除することが始まる。
ついには、目的のためには手段を選ばない暴力がまかり通るようになる。
「聖戦」という名目の殺生主義が唱えられる。


私は、神や宗教といった集団幻想を信用しない。
私ははっきりいって、あらゆる集団主義が嫌いである。
私の眼も耳も口も、とことん個人主義に貫かれている。
私に集団幻想のサングラスや耳栓やマスクは必要ない。
個人主義に苦しんで、個人主義に呻いて、個人主義に裏切られて、それでもなおかつ個人主義に徹して、私は人間を心から知りたいと願っているのである。


法律がなければ人間は正しく生きられないと考える者は、人間性について性悪説を支持していることになる。


自分のか細い指や皺混じりの掌をつくづくと見つめたことがあるだろうか。
脆弱な皮膚に蒼白い血管が透けて見えるだけではないか。
脆弱な皮膚や蒼白い血管は、自分がやがて死ぬことをいやでも保証している。
どこに絶対性や普遍性を保証してくれる鉄骨があるというのだろう。


自分が脆弱な皮膚を被った存在であることを知っているからこそ、人はなおのこと自分の外部に絶対的なものを求め、片時でも自分の弱さを忘れようとするのかも知れない。
しかし、それも虚しい幻影である。


−−恩寵がはいりこめるようなあらゆる裂け目をふさぐために、創造力は絶え間なく働いている。
  シモーヌ・ヴェーユ 『重力と恩寵』


「普遍性」、「必然性」、「永遠の真理」、これらのことがらを人間は心底讃美しているかのように思われる。
しかし、じつは人間はこれらのことがらを最も嫌悪しているのではないか。
厳格な父親や道徳的な母親は、子供の自由を束縛する呪わしい存在である。
子供は自由と可能性の存在であり、過去のやかましい規律から解放されなければ、必然性の奴隷であり、永遠の真理を背負ったロバにすぎない。
道徳や宗教は、じつは人間を不自由にするいまわしい緊縛衣である。


古いことわざを持ち出すまでもなく、人間は確かに過つ動物である。
しかし、その過ちはいつも全くでたらめではなく、過ちのなかにも一定のルールが存在する。
私もよく間違うパソコンを例にするとわかり易い。
たとえば、「たかい(高い)」と「やかい(夜会)」を間違えて入力した。
「ゆめ(夢)」と「つめ(爪)」を間違えて入力した。
ここにどんな過ちのルールがあるのか?
それは、日本語のローマ字入力を見ればすぐにわかる。
「takai」→「yakai」、そして「yume」→「tume」
つまり、キーボード上で隣り合っている「t」と「y」とをうっかり入力ミスしているのである。
同じように、「039」→「036」、「1234」→「1237」
ここにはどんな過ちのルールが存在するのだろうか?
何のことはない、テンキーの「9」→「6」、「4」→「7」を押し間違えているのである。
しかし、「9」→「4」とか、「7」→「6」とかの過ちはめったに起きない。
テンキーの数字の配列を見れば、過ちにも確かにルールがあることがわかるのである。

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