随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−51

オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインの「論理学」に対して、私は未だに馴染めないものを感じる。
彼の初期の『論考』では、哲学の最終目的は、「世界を−−一点の曇りもなく−−正しく見る」ことだという。
私には、ウィトゲンシュタインは天使の眼を持った哲学者のように思われる。
天使の眼を持った彼の哲学的命題には、だからこそ大きな欠陥があった。
すなわち、「人間は過ち、ウソをつく存在である」という考察が決定的に欠けているということである。
厳密な「論理学」が、ウソをつく不誠実な人間を締め出したがるのは、理解できる。
しかし、そのことによって厳密な「論理学」は、ついには誠実な天使だけが住む世界を描き出す。
彼は、何よりも自己欺瞞のない純粋な生き方を望んでいたという。
しかし、現実の人間は、自分の生まれをごまかし、年齢をごまかし、才能をごまかし、容貌をごまかし、あらゆる自己欺瞞を平然とやってのけるのである。
つまり、人間は生物学的に首尾一貫して生活していても、論理学的に首尾一貫して生活しているのではないということである。
もしも、この世界にはただ正直な人間だけが存在すると仮定したなら、哲学は全く不要になるだろう。
ウィトゲンシュタインは、「永遠の相の下で見られた世界−−これが絶対的に正しく見られた世界」だという。
まさしく、生身の人間には不可能な、天使の眼で見た世界であるに違いない。
正しい世界を盲信する彼の世界観は、スピノザ主義というより、ほとんどプラトン主義である。
私の哲学がプラトン主義から外れているために、ウィトゲンシュタインの哲学に究極的な違和感を覚えてしまうのかも知れない。


−−「知性の声は小さい」 ジークムント・フロイトの墓碑銘


哲学は人生の糧であっても、日常の糧ではない。
では、日常の糧でないものが、いつの間に人生の糧となるのか。
それは、糧を三食と眠り以外に求めたときである。


世界平和…それは人類の果てしない幻想ではないのか。
人類は全体として少しも平和など望んではいないのではないか。
戦争は人類の宿業的な本性が繰り返し引き起こすものではないのか。
二十世紀の全歴史がそのことをあからさまに暴露してみせたのではないのか。
核兵器を非人道的だと避難するのは筋違いではないのか。
少なくとも核兵器を行使した大国は人道的理由だったと断言しているではないか。
八月六日広島、そして八月九日長崎で、二十世紀最後の「原爆の日」を迎えた。


私は、いつも一つの疑問に取り憑かれている。
「人間の歴史は、弱肉強食の思想以外何も生み出せなかったのではないか?」
スコラ哲学、中央集権国家、ダーウインの進化論、列強主義、科学万能主義、そして現代資本主義、どれもこれも弱肉強食の本性が巧妙な仮面を被ったにすぎない。
そして、私は次のような悪夢の結論に魘されている。
「人間は万物の霊長ではなく、闘争心旺盛な野獣の一員にすぎない」


人類の未来に理想的な平等社会を実現しようとするなら、すべての人が全く同じ遺伝子をもったクローン社会でなければならないだろう。
その社会では不平等な学問や労働や結婚は必要なくなる。
個性や独創性や多様性は遺伝子の欠陥と見なされる。
そして、ついにはその社会では文化も必要なくなる。
逆ユートピアであるが、それ以外に理想的な平等社会は考えられない。

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