随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−48

二十世紀初頭に哲学は異常なまでに期待され発展したが、二十世紀末にはもう誰も期待を寄せない無惨な学問になり果てた。
今や、哲学無用論を唱える学者も多い。
なぜ哲学は、最初は新たなメシアのようにもてはやされ、ついにはインチキ教祖のように冷遇されるようになったのだろうか。
それは、二つの世界大戦までは威厳を保っていたが、引き続く地域紛争や民族紛争で、その教えの無力さが地球規模で暴露されたからである。
今世紀の哲学のどれ一つとして、地球規模で平和に貢献できた哲学はなかった。
哲学は、紛争の原因になりこそすれ、英知をもった解決の糸口には到底なりえなかった。
あらゆる哲学、あらゆる権威、あらゆる闘争心は、人間の宿業的な偏見に満ちており、恒久平和をもたらすものでないことを、人類は知り尽くしている。
つまり、哲学そのものが人類の期待を裏切ったのである。
だから、哲学はもう誰も参拝することのない廃墟の神殿になり果てたのである。
私は今、二十世紀精神の廃墟で哲学することの空しさをかみしめている。


自分の外部にどんなに確実な真理を仮定しても、私はやはり不審を抱いてしまう。
本当は、何か確実な真理を心底信じたいのである。
しかし、私の内部では、自分の信念に自信がない。
たとえ、自分の外部に真理があったとしても、それを承認しようとする私は内部から変化し、老化し、やがて死ぬ。
自分が死ぬことを承知している者は、自分の内部で自信を喪ってゆく。
確実なものは何もなく、一切は夢であり、虚妄にすぎない、と。


血友病患者に対して、危険な非加熱製剤を投与したことによって、1800人ものHIV感染者を生み出したとされる、日本薬害エイズ訴訟を傍観していて、私が思うのは、「人間は過つ存在である」というペシミズムである。
当時の血友病の権威である大学教授が、いかなるミスを犯し、いかなる責任回避を行ったかということは、重大な社会的問題であるとしても、哲学的問題としてはお粗末である。医者であろうと教授であろうと、究極的に他人はミスを犯す可能性のある信用できない存在なのである。
私の宿業体系はそのことを包み隠さず、論理的にあからさまに表明している。
あらゆる価値判断において、すべての権威や真理は疑わしく、偏見のみの相対的な価値判断でしかないことを、私はくり返しくり返し思い知らされている。
ひとりの人間が自殺せずに生きてゆくためには、通常言われているように「何かを信じること」ではなく、「何も信じないこと」が最も大切なのである。
しかし、哲学的にはそれでいいとしても、社会的に何も信じないで生きてゆくことなどできるのだろうか。
望まずにHIV感染させられた者に、「社会的な明日など信じるな」、などと誰が言えるのだろうか。
ペシミストの私にも答えることはできない。
私は、自分がHIV感染者ではないことを知っているから。
人間は、自分が遭遇した運命、生まれたことの宿業をことごとく理解することはできない存在なのである。

次ページへ
前ページへ
目次へ