随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−47

私の念願である『生命と物質』の執筆にとりかかるため、生物学、細胞学、遺伝子工学、解剖学など、さまざまな文献を読みあさっている。
しかし、サラリーマン生活をしているため、論究は遅々として進まない。
また、いろんな文献に目を通すたびに、ただただ自分の無知を自覚させられる。
『生命と物質』というタイトルで、自分がいったい何を目的としているのか、ときには判然としなくなる。自分の意図が時間的に変わってゆく可能性がある。
人間は、何か目的を持って行動する。しかし、いつも希望通りの結果が得られるわけではない。
目的はある。だが、さまざまな要因によって機械的決定論ではありえない。
希望通りの結果が得られるのは物理や科学などの原因結果の世界であって、人間を主体とする行動目的の世界ではないのである。
だから、人間の目的論は、科学の結果論に較べて信用できないのだろうか。
ここにもはや『生命と物質』の根本問題が横たわっているのではないだろうか。


−−われわれの脳に運動に対するなんらかの「理解可能性」があらかじめ前提されていなければ、力学が生じるはずがない。われわれが実際に「運動」し、運動が脳と関わっている以上、われわれが運動を「正しく」理解する方がむしろ当然であろう。力学が外部の「客観的世界」あるいは「物体の世界」に成立するから、それが「客観的真理」だというのは、考えてみれば変な理屈である。むしろそれは、力学では話が単純だということであろう。
言っておくが、脳は単純ではない。量子力学まで来れば、その「客観的真理」が成立しないことはもうわかっている。そこでは、ものごとは「量子的」つまり微分不能になり、最後には、不確定性原理として観測者が顔を出す。観測者とは何者か。それは脳である。同じ脳が、時空の相対性の問題についても、やはり顔を出したことは、大抵の人が知っている。物理学に唯脳論を持ち込んだのは私ではない。アインシュタインであり、ハイゼンベルクである。脳は物理学に「出るべくして出た」のである。いまでは物理学的な宇宙論に脳、つまり観測者が顔を出すのは、当たり前になってしまった。それは物理学が健全になった証拠である。
  養老 孟司 『唯脳論』


養老孟司氏は解剖学が専門だけあって、その書は決して易しくはない。特に「人間の脳」をあつかったものは、読み進むのにずいぶん苦労する。
つまり、読み進むのに苦労する私は自分の脳に関してほとんど知っていないことを暴露しているようなものである。
しかし、氏の文章はできるだけ素人にも分かるように随所に工夫していることが読みとれる。
それは、言語が万人にとって普遍的なものではないことを意識している人の心遣いである。
氏の言説は結局、解剖学だけにとどまらず、自然科学や人文科学、知覚論や認識論、そして人間学に帰着する。
解剖学だけなら私には理解できないが、人間学ならまがりなりにも理解できるのである。
私は、氏の唯脳論を支持する。それは私が、ショーペンハウアーの「人間一人死すごとに一つの世界が滅んでゆく。その世界とは、その人が頭脳のなかに持っていたものである」という説を支持しているからである。

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