随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−44

「台風一過。午後2時の東の空で、ガラス玉のような半月が地球を見下ろしている。」
しかし、自然現象をこのように表現するのは、私の意識である。空が雨雲に覆われていれば、ガラス玉のような半月は見えない。見えないと思うのも私の意識である。
しかし、物理法則では今日の午後2時の月の動きは正確に予測できる、と見なす。そこでは、私の意識があろうとなかろうと問題ではない。自然現象は、私の意識とは切り離された客観的事実だと見なすのである。
だがしかし、本当にそうなのだろうか。どんなに正確に予測できても、それを確かめる意識がなければ、その予測はいったい何を意味しているのだろう。それは単なる学問的な思いこみにすぎないのではないだろうか。
私の視力がもっと悪ければ、どんなに頑張ってもガラス玉のような半月を見ることはできないだろう。私の意識がもっと衰えていれば、月などあってもなくても問題にしないような生活を送っているだろう。
たとえ月に対する物理法則があっても、それが私の意識に反映しないかぎり、何の意味も持たない。
私は主観的な世界の住人である。私は、客観的な世界を一度も覗いたことがない。
客観的な自然現象を正確に予測することも、客観的な他人の意識を正確に言い当てることも、ともに不可能である。
私は、生まれ落ちてから死ぬまで、主観的世界という牢獄に囚われている。しかし、この牢獄にいることによって、私は自由に意識を働かせることが許されている。私がこの牢獄から一歩でも客観的世界に足を踏み入れると、たちまち自由を剥奪され、ロボット人間と化してしまうのである。
その意味の重要さに気づいた人は、客観的世界を讃美したり盲信したりしない。


−−それぞれの人間が、それぞれ少しずつちがった主観的世界に生きる機械であろうことは、まだ分子生物学的予測にすぎないが、それは近い将来自然科学的に実証されるかもしれない。そうなると、そのことはひょっとすると、旧来の人文的世界の虚構をあばくことになるかもしれない。この数年来、このような想念が私の頭にこびりつき、時に私を興奮させてきた。こういう考えは、多くの人々から強い反発をうけるにちがいないが、それだけに私には検討に値する仮説と思われる。
  渡辺 格 『人間の終焉』


三宅島や神津島では、地震や噴火が相次いでいる。島から脱出する住民も現れた。
そうした自然災害の恐しさは、実際にそれを体験した人にしかわからない。
それをどんなに科学的に数値化してシミュレーションしてみても、災害そのものを再現することはできない。
どんなに現地で映像化してテレビで放送しても、現地にいない人は災害を実体験することはできない。
たとえ災害の犠牲者がでたとしても、犠牲にならなければならない理由はなく、決まって不条理な犠牲である。
私はいつも、災害に遭った人の恐ろしさや痛みを少しも共感できないことに悩んでいる。
私はやはり、主観的世界という牢獄に囚われたままである。


私は、なぜ安定した楽観論よりも、不安定な悲観論を好むのだろうか。
私のなかにある不幸な気質に由来するのだろうか。
だが、多くの哲学書や科学書を読んでも、私の心を捉えるのは統一化よりも差別化である。何らかの根本思想による世界統一などは考えられない。
世界的規模のインターネットが張り巡らされ、驚異的なDNA革命が起こっても、むしろ、人間はますます差別化され、特殊化され、孤独になってゆくように思われる。
それは、人間が元来不安定な精神を持った生き物だからである。

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