随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−42

−−実存は哲学的思索の目標ではなく、その根源である。哲学することは実存のうちで捕えられるものである。根源とは、私がそれを越えてさらにさかのぼってその発端を問うような発端ではないし、私がそこで絶望するに違いないような私の恣意でもないし、またそれ自身は疑わしい無限の諸動機から生じた結果としての意志でもなく、自由としての存在であり、私が無知において哲学しつつ私に立ちかえるとき私はその自由としての存在へ超越するのである。根源についての懐疑のなかで哲学する頼りなさは私の自己存在の頼りなさの表現であり、哲学することの現実はかかる自己存在の始まる躍進である。それゆえ、哲学することは、実存の把握をその前提としており、この前提としての実存は始めはただ、意味と支えを求める暗中模索にほかならず、懐疑と絶望としての己れの可能性へ立ち還らされ、やがて次には概念的にはとらえられぬ確信として現れ、その確信は哲学的思索のうちで解明されるのである。
  ヤスパース 『実存開明』

私が、ヤスパースの哲学を尊敬するのは、こういう根源的なフレーズを見つけたときである。私には、ヤスパースが20世紀のソクラテスにさえ思えることがある。
自己を知るとは、「意味と支えを求める暗中模索にほかならず、懐疑と絶望としての己れの可能性へ立ち還らされ、やがて次には概念的にはとらえられぬ確信として現れ、その確信は哲学的思索のうちで解明されるのである。」
私には、これ以上何も付け加えることはない。私の実存のなかで、「概念的にはとらえられぬ確信として」現れたのが、「宿業体系」に他ならないのである。
完全性の即自態に達したものは、もはやそれ以上にもそれ以下にもなり得ない。不完全なことを自覚しているものだけが、それ以上にもそれ以下にも変容する可能性がある。性急に一挙に完全性に到達したなら、もはや何もすることがなくなってしまう。懐疑と絶望のなかから本物の確信が生まれてくる。


−−私は、この私以上にはっきりした化け物、奇蹟をこの世で見たことがないのだ。ひとは習慣と時間によってあらゆる妙なことに慣らされる。しかし、私は、自分につきまとい、自分を知れば知るほど、ますます私の曲がったかたちが私を驚かせ、それだけますます私自身が自分でつかめなくなってくる。
  モンテーニュ 『エセー』

−−自然は、われわれに、ものごとの限界のどのような知識をも与えなかった。
  キケロ 『アカデミカ』


円を、あるいは球を、刃物で半分に切ったならどうなるだろうか?
ほとんどの人は、2次元の半円、または3次元の半球が2つできる、と答えるだろう。
だが、水面に浮かんだ美しい円形の油滴を刃物で切ってみたことがあるだろうか。
油滴は刃物で分割しても、けっして半円や半球にはならず、より小さい2つの円や球を形作る。
幾何学の円や球を分割する場合は、剛体の円や球を想定している。デカルトの円や球の定義はまさにそのようなものである。
しかし、液体に描かれた円や気体に漂う球を、数学者は誰も分割しようとはしない。


私の精神、私の「パラボラ・アンテナ」は、少しも正しい円形ではない。
外界からの色んな電波、色んなデータを得るためには、受信側が正しい円形ではだめなのである。円形は究極的に色んな多角形データを排除する。
あなたの精神が円形であるとき、どれほど多くの不定型な精神を排除しているか、知っていますか。

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