随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−41

自分を含まない数学や物理の世界では、確固とした決定論が幅をきかせる。
しかし、いったん自分を含む現実世界になると、たちまち非決定論に悩まされる。
昨日の新聞記事や今日の天気予報や明日の食事予定など、決定論で埋められる項目は一つもない。
昨日の自分のことさえ何一つ決定論では語れないのに、今日や明日の自分などとんでもない話だ。
しかし、人間は自分のことを何も分かっていないにもかかわらず、なぜ自己告白したがるのだろうか?
それは、言葉を知った人間の抑えがたい衝動だろうか。物を考えることを知った人間の精神の病いだろうか。


ライアル・ワトソンの『ネオフィリア(新しもの好きの生態学)』を読む。
なかなか示唆に富んでいて面白い。しかも、難しい学術用語など使わず、具体例が豊富なのがいい。
トラは、ネオフィリック(新しもの好き)な動物で、パイオニア・タイプであるという。
ライオンは、ネオフォビック(新しもの嫌い)な動物で、スペシャリスト・タイプであるという。
そして、人間はトラと同様、ネオフィリックな動物であり、機を見るに敏だが、気むずかしく、ノーローゼになりやすいという。
なお、化石や古代文明に興味を抱くのはペリオフィリア(古いもの好き)な動物である。


−−耳はもともと、聴くために作られてはいない。魚や亀などは、耳なしでも何不自由なく暮らしている。原始脊椎動物の多くも、耳の初期段階である液体のつまった管しかもっていない。この管は現在のわれわれの内耳構造の一部となっているが、発生をたどれば、単なる平衡器官であったにすぎない。平衡器官とは重力に反応し、動物に上下方向を教えるものだ。進化の後の段階になると、やや発達した爬虫類では、この管がさらに複雑になり、頭部の回転運動を感じとるいくつかの曲面が形成された。これが体の平衡を保つために役立った。そして最後に、半ばあとからの思いつきのように、鳥類や哺乳類の段階になって、初期のこうした器官に中耳と外耳構造が加わり、外界の多様な音に反応することを身につけた。こうした進化の順序は明快だが、仕上げの段階の仕組み、つまり聴覚そのものの発達は今なお謎につつまれている。
  ライアル・ワトソン 『ネオフィリア(新しもの好きの生態学)』


私は若い頃から、耳について独特の偏見を抱いている。
目が空間変化を知覚する器官であるのに対して、耳は時間変化を知覚する器官である、ということである。
最も大きな違いは、目は対称的に認識できるが、耳は非対称的にしか認識できないということである。
音波も重力も、時間変化に対して非対称である。重力を反転できないのと同様に、話し言葉も反転したら意味が通じなくなる。
目は光に満ちた空間に支配され、耳は重力に牽かれた時間に支配されている。
しかし、本当は目も重力の影響を受けて時間変化を知覚できるし、耳も光の影響を受けて空間変化を知覚できる。
究極的に光も重力もエネルギーに変換される。目も耳もエネルギーを知覚する器官なのだ。


私の左耳はつねにジーンというかなり高い振動数の耳鳴りが続いている。
良い方の右耳を掌で覆うと、外界の音はほとんど明瞭に聞き取れない。
考えてみると、耳鳴りというのは奇妙な病気だ。
ふつう、耳は外界の音を聞き取るためにあるのに、耳鳴りは自分で自分の患部の音を聞いているのだから。
それは、鼓膜の気圧や耳管の血圧が発する不快な振動音である。
耳鳴りの音源は、障害を起こした自分自身である。
障害を起こしたなら、何も聞こえなければいいものを、かえって不快な喧噪を生み出しているのである。
天気が変われば気圧も変動し、それによって私の体温や血圧も変化を受ける。
それなのに耳鳴りはほぼ一定の振動数で頑固に耳腔を占領し続ける。
この耳鳴りの振動数を、私は正確に他人に説明できない。
「ジーンというかなり高い振動数」と言ったところで、ほとんど説明になっていない。
つまり、耳鳴りは決して他人と共有しえない音声なのである。
当然ながら、私も他人の耳鳴りを直接聞いたことは一度もない。
このことからも、私は私自身をデカルトのように客観的に見聞きできないことを証明している。
私の耳鳴りが、デカルトのコギトは信用できない、と訴えている。

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