随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−34

カントは言う、「数学における認識は確然的確実性、換言すれば絶対的必然性を帯びる」。
だが、カントよ、「私がおいしいと思う食べ物、暖かいご飯にみそ汁は、私にとって数学よりもはるかに確然的確実性、生きてゆくためには絶対的必然性すら帯びるのです」。
カントは、人間の食べ物に対するア・プリオリな認識を徹底的に無視してしまった。それについて言及するのは普遍的なカント哲学の恥辱だとでもみなしたのだろうか。
感性的認識は理性的認識に劣るとするのが、カントを初めとするドイツ観念論の独断である。何という偏見だろう!
いままでに抽象的な数列の小麦から、人の空腹を満たす一塊のパンでも作れたためしがない。
カントは、永遠の観察者のようなロボットであるまえに、まず日々食べ物に腐心する生物である自分を、純粋理性批判すべきだった。
純粋理性の飢えよりもまず、肉体の飢えを解決しなければならない。そうすれば、すこしは理性もましな考え方ができるようになるだろう。


日本の食文化は、こだわりの文化である。
典型的な日本の寿司、刺身、天ぷら、どこにでもこだわりがある。
さらに、あなたはラーメン党か、うどん党か、そば党か、によっても味覚のこだわりがある。そのこだわりは、舌で覚えた「偏見」である。
日本料理、韓国料理、中国料理、タイ料理、インド料理、アラビア料理、イタリア料理、フランス料理、スペイン料理、だが…イギリス料理やアメリカ料理はちょっとお粗末。


生命あるものはいつかは死ぬ。しかし、物質は別な物質に変換することがあっても死ぬということはない。この違いは、果たして大きいのか小さいのか。
空気や水や食物という物質を摂取することによって生命体はその命を養っている。だから、生命は物質とイコールにならなければならない…?
生命工学の進歩は、生命と物質の境界線を消してしまうこと。
だが、しょせん生命と物質を区別しているのは人間の意識なのである。人間の在り方こそ問い直されるべきである。
それとも、生命が物質に全く還元されてしまったとき、人間は「判断停止」に陥ってしまうのだろうか。


私が次に取り組む哲学テーマは「生命と物質」。
「生命an sich」は、究極的に「物質an sich」とイコールとなってしまうのか?
動物であれ、植物であれ、細菌であれ、究極的に素粒子とエネルギーとに機械的分析的に過不足なく置き換えられてしまうのか?
もしそうであるとすれば、まさにそのことによって、認識の闇の中から何が問題となって立ち現れてくるのか、それを決して見逃さないこと。その帰結がたとえ、人間存在を徹底的に侮辱するものであっても、怯懦に眼を背けてしまわないこと。
たとえば、「生命イコール物質となってしまった暁には、人間は他の生物と同様に生殖によって遺伝子を残す意義を見失ってしまうかもしれない。物質を機械的に組み立てて自分の完全なクローンを作り出せるかもしれない。その結果死の不安に怯えることもなくなってしまうかもしれない。その結果真剣に生きる意味も見失ってしまうかもしれない」等々。

−−生命は、無謬の神が作ったにしてはかなりできの悪い作品である。しかし生命は、決定論的に働く「力」のみによって説明される「物質」よりも印象的で予測不可能である。地球上の生命の神のような性質は地球全体に遍在しているということができるが、全知でも全能でもない。
  リン・マーギュリス&ドリオン・セーガン 『生命とはなにか(What Is Life?)』

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