随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−33

「ecstasy」−忘我、脱我状態、無我夢中。
人間は我れを失うことによって、最高のエクスタシーに到達するらしい。神秘的な体験によって、人間が無我夢中の状態に陥るように。
逆に、人間が滅多にエクスタシーに到達できないのは、有限な自我に束縛されているからである。それが人間の常態であり、実存なのである。
神秘家の言葉が無責任なように、エクスタシーに達している人間は究極的に自己に無責任である。究極のエクスタシーを求めるなら、究極の無責任を自らに引き受けなければならない。
−−肉体の疲労と意識の混濁によって、実在するものの境界線が融けはじめる。夢と現実が交替し、その間隙をぬうように幻視や幻聴が殺到してくる。奇怪なイメージがあらわれ、エロティックな感覚が異常に発酵する。
 山折哲雄 『神秘体験』


1662年8月19日深夜、ブレーズ・パスカル死去。享年39歳2ヶ月。
デカルトよりも遙かに厳密で熱烈な近代精神の持ち主であった。私が、デカルトよりもパスカルに多く惹かれるのは、その熱い心臓の鼓動のゆえである。計算機の発明者であるパスカルは決して機械的精神の持ち主ではなかった。彼は、人間の限界を知っていた不思議な実存哲学の先駆者である。


私が、アメリカの歴史(断じてアメリカの人種ではない)を嫌いなのは、その歴史に経済原理以外の、いかなる歴史精神あるいは歴史哲学も見いだせないからである。
先住民族のインディアンも奴隷貿易の黒人も、アメリカの歴史では、市場価値、経済原理の尺度でしか扱われてこなかった。
だから私は、アメリカの歴史は金の亡者どもが築きあげた歴史としか思えないのである。


自分が意識を働かせている間は、時間についてよく知っている。しかし、いざ「時間とは何か?」と問われると、たちまち分からなくなってしまう。
つまり、言葉という一般価値を使って、固有価値の属性である意識の持続性を説明しなければならないからである。
一つの逃げ道としては、「時間とは説明するものではなく、使用するものである」


社会や政治の分野にまで、広く占いが蔓延しているのは、人間がますます自分の主体的な判断に自信をなくし、自律責任を回避しようとしている証拠ではないだろうか。
占い師のことを、「人間の弱みにつけ込んだ最高の商売人」と命名した人がいたが、けだし名言である。


正常と狂気をどうやって見分けたらいいのだろうか?
たぶん地球上のほとんどの人が、自分は正常だと思って生活している。
しかし、その中から必ず狂気に根ざした事件が現実社会で毎日のように発生している。
宿業体系の自律責任に、正常と狂気の明確な区別はない。
あなたも実は狂気の宿業を背負っているのではないか?あなたはどこまで自己確信できますか?


最近、驚嘆したり感動したりする書物や影像に巡り会うことが少なくなってきたように思う。きっとそれは、現実社会が感動を与えることが少なくなったからではなく、私の心が年齢とともに鈍化してきたせいではないだろうか。
「汝自身を知れ、鈍化してゆく汝自身を思い知れ」 出来ることなら、本当は自分の心が現実的に麻痺し、鈍化してゆくことなど、とうてい認めたくはないのだが…。


人間について論じているときは思慮分別もあってはっきり分かっていたのに、突然無限世界や神の御名を持ち出されると、人はとたんに何がなんだか分からなくなってパニック状態に陥る。たとえば、こんな寓話。
「にぎやかな野猿の群に、突然一匹の猛虎が出現した! 最初、野猿は怯え、叫び、逃げまどう。やっとパニック状態から立ち直っても、二度と猛虎に近づこうとしなくなる。そして、それが張り子の虎にすぎないことに最期まで気づかないのである。」

次ページへ
前ページへ
目次へ