随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−30
「人間は死すべき動物である」
判っている、いちいち説教されなくたって、そんな単純なことは判っている、と現代人はいう。だが、果たして現代人はそのことを真剣に徹底的に判っているのだろうか。
その単純さ、その不可避性のために、現代文明は最も徹底して、人間の死を見落としてきたのではないだろうか。科学技術や文化生活のめざましい発展にただ陶酔して、実際はひたすら自分の死の自覚から逃避することばかり願望してきたのではないだろうか。
デカルトの合理主義やカントの観念論が、まさにその思想の強固さを喧伝することで、最も隠蔽しようとしたのは、「死の哲学」であった。
むしろ、人間という単独者にとって、死の不安がどうにもならない非合理な相貌をおびているがゆえに、デカルトやカントはことさら理性の不滅を強調して、その根本にある最重要課題から眼をそらそうとした。
理性が確信する機械的決定論の世界のどこに、人間自らの死を省察する席が設けられているというのだろうか。
現代文明は、有形無形の存在で、デカルトの数学や、カントの哲学に多くの恩恵を受けている。
だが、死の不安を徹底的に忘却しようとした文明は、やがて死の不安によって徹底的に復讐されるだろう。それでもなおかつ理性は万能で不滅であると信ずる根拠はあるのだろうか。
カント哲学は厳密ですばらしい。しかし、唯一の誤謬があった。それは、カント自らの死を厳密に説明できないことである。
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☆
コンピュータは機械的決定論の申し子である。
よく、「コンピュータは人間の脳の働きを真似たものである」などという説明にお目にかかるが、ではコンピュータも被害妄想に捕らわれることがあるのだろうか。
コンピュータが被害妄想に捕らわれることがあったら、もっと親しみを覚えるのに…。
こんなことをふと思ったりする。
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私が、人間の精神の闇に眼を凝らすとき、「被害妄想」というものをまず探り当てる。
小さな心の傷から、異常な心の病いまで、人間は誰でも「被害妄想」を持っている。
その理由はただ一つ、人間がいつまでたっても不完全な存在だからである。
完全ではない我が身を知ったとき、子供も大人も、一人残らず「被害妄想」に取り憑かれる。最大の「被害妄想」は、いずれ自分も死を宣告される不完全な人間に生まれてきた、という痛切な自覚である。
その結果、不完全さを忌避するために、人それぞれの多彩な自己暗示を試みる。
ある人は自惚れが強くなり、ある人は自己嫌悪に陥り、ある人は詭弁を弄するようになり、ある人は自己逃避するようになり、ある人は神がかりになり、ある人は運命論者になり、ある人は加害妄想に飛躍し、ある人は自ら死を選ぶ。
そのことによって、人は自らの「被害妄想」を表面的に覆い隠そうとする。
しかし、「被害妄想」は精神の闇に潜む悪魔に他ならないのだ。
精神異常者は、おうおうにして極端な「被害妄想」を自分の真実の声として語りたがる。世の中で、凶悪な事件を引き起こした犯人は、逮捕されたとき決まって被害者づらしている。それほどに「被害妄想」は根深い。
「被害妄想」を原動力として、自傷他害の行為に突き進む動物は、人間だけである。
いや、それも私の偏見かもしれない。
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