随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−28
現代人の精神は、近代人の精神よりはたして賢明になっているのだろうか。
現代は、過去にも増して怪しげな宗教や気違いじみた教祖が乱立している。
つまり、怪しげなものを無批判に信じて、入信する輩が存在するからだ。
何度も書いているが、私の根深い偏見の一つは、「食欲や性欲という選択的意志があるかぎり、人間は神になれない」ということである。
神はそういった欲求に対して選択的意志を持たないし、選択できる余地があるならそれはもはや神ではない。
脱俗の精神に取り憑かれた威丈高な教祖が、なお物欲しげに食欲や性欲を捨て去っていないなら、その説教はまずインチキだと見なしてよい。
★
☆
現代で安易に信用すると危険な人々、教祖、学者、医者、警察官、それと政治家。
★
☆
哲学の世界でも、自分の頭で考えず、虎の威を借る狐よろしく、ひたすら偉大な哲学者の論法をコンコンと吹聴するやからが多い。とくに、最高学府の研究者に。
私は、彼らを学問の徒と見なしても、哲学の徒と見なすことはできない。
まず、自分のパースペクティヴを主張せよ。そして、大哲学者のパースペクティヴを批判的に開陳せよ。
哲学者になりたいのなら、ストイックでなければならない。その禁欲主義とは、「自分以外の何者をも権威と見なさないこと」である。
何者かを権威と見なすことは、非常に安楽な道である。そして、安楽な道ほど、亜流の溜まり場であり、主体性の底なし沼であり、独創性の墓場である。
1万人のヘーゲルの亜流よりも、1人のキェルケゴールの方がまだ本物の哲学を知っている。
★
☆
生命体に対する、私の根深い疑問。
自分の肉体も高分子化合物から成り立っていることを承知している。
だが、分子ははたして生命体の、細胞組織の老化現象を正しく説明できる雄弁家なのだろうか。物理化学の性質しか持たない分子が確かに老化することを、どうやって確かめるのだろう。あなたが今飲んだ水分子が、あなたの細胞をどんな企みで老化させたのか、それが死を予告するどんなタイマーをセットしたのか、水分子は何も語ってはくれないのである。
また、量子論ははたして素粒子の振る舞いから、人間の死を究極的に説明できる弁証法なのだろうか。色も形もほとんど大きさもない素粒子が、人間がついに生物的に死ぬことをどうやっても説明できるわけがない。それは、一本のボルトが外れたことで、ロボットが動作不能になることと大きな違いがある。その最大の差異は、ロボットは部品を交換して再生できても、生命体はついに再生不可能であるということである。
しょせん分子も素粒子も、人間が考え出した仮象のモデルである。実体はどこにもない。犬から見ても、鳥から見ても、分子など存在しない。人間だけが、幻影の分子モデルを死に物狂いに求めているだけである。
分子も素粒子も存在しない。あるのは、自然の中の関連性のみである。
自然現象の関連づけはあるが、関連性を支える分子などの実体はどこにもない。
私の肉体は、自然との関連において、私の姿として認められる。
私の精神も、自然との知覚において、私の生として認められる。
しかし、私の真実体は、いまこの場所においても捉えようがない。
次ページへ
前ページへ
目次へ