随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−27
「思想」とは、ある人々を教導し、ある人々を凌辱し続けた人類の不可抗力の風土病ではないだろうか。
その土地、その気候、その時代が生み出す風土病である。
しかし、すべての人々にとって完全な真理を備えた思想などというものはおよそあり得ない。
それは、寒帯、温帯、熱帯のすべての人々に同じ衣服を与えるように理不尽なものだ。
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「豚に真珠」、「猫に小判」、「馬の耳に念仏」
確かに彼ら動物はそんなものの価値が分かろうはずはない。ホモ・サピエンスはそうやって動物を嘲りさげすむ。
しかし、もう一度考え直してみよう。彼ら動物には不必要な真珠や小判や念仏を、なぜ人間だけは狂ったように願い求めるのだろうか?
そうした外界の価値に頼らなければ、人間は生身の人間として充足できないことこそ、本当は問題なのである。
人間に比べて他の動物は完全なまでに自己充足している。
「汝は塵なれば、塵に返るべきなり」(『創世記』)
ただ空しく塵に返りたくないばっかりに、さまざまな法則や思想や価値をかつぎあげてジタバタしているのが、すなわち人間の偽らざる姿である。
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人類の歴史を概観してつくづく思うのは、どんなに文明人の優れた知恵といったところで、「優勝劣敗」「弱肉強食」の思想よりも優れた思想が何一つ見あたらない、ということである。
皆さん、騙されてはいけない!「人類愛」を説く宗教も、その根底にあるのは「優勝劣敗」の思想である。
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「人類愛」とか、「人類全体の正義」とか標榜する者は、「世界征服」を企む者と同様に危険である。
征服者は決まって、「人類の平和のために」などと、独善的な自己正当化に血眼になるものだ。
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私自身、つねに一方の極から他方の極へ烈しい振幅で揺れ動いている。
「唯一絶対神」そして「諸法無我」、いずれの極限においても、全き安心感を得られない我が身の運命を問い続けながら。
人間不信の思想は夥しい。プラトンからニーチェまで然り。
では、人間信頼の思想はいったいどこに求めるべきか。
科学、哲学、文学、宗教、ああ何と壮大な精神がそっくり人間不信に奉仕していることだろうか。
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−−あの大きな悲愁を離れることはないだろう。その悲愁とは、今日、吐き気と呼ばれるものだ。今日、胸と口と目とを吐き気で満たされていない者がどこにあろう。あなたもそうだ、あなたもそうだ。
ニーチェ 『ツアラトウストラ 第四部』
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無気味な客としてのニヒリズム、大いなる吐き気、その吐瀉の後に訪れるのは?
ただ惨めに疲れ果てた単独者なのだろうか。
何のために人生の貴重な時間を費やして、頭の痛くなるような哲学書を読まなければならないのか。
そんなに苦心しても、得られるのはただ惨めな虚無感にすぎないとすれば…。
厳粛な人間問題、哲学や思想が、現代においてはことごとく戯画化され、パロディとなる。額に汗して思索することのむなしさ。
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