随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−26

捉える立脚点によって、外界の表象は大きな差異を人間に及ぼす。でなければ、似通った景色の中にあってさえ、ある人には物珍しく、ある人には陳腐に、ある人には懐かしく、ある人には忌まわしく、ある人には感動的に、ある人には苦痛に、といった受け止め方の相異がどうして生じてくるのだろうか。
人間は外界を、自然科学的に恒常不変なものとして表象しているわけではない。もしもすべての人々にとって表象がまったく一致しているものなら、自然を詠嘆したり、風景画にしたり、感動を文章に綴るといった芸術活動すら、人間は考えつかなかっただろう。
科学とて、一つの立脚点による表象のしかたの一つにすぎず、それだけが普遍的に正しい表象のしかただというわけではない。科学は頑固な理論一辺倒のパースペクティヴである。それが限界を弁えず、あらゆることに普遍妥当的に拡張されると、ついには人間をも抽象化してしまう危険性に陥る。


文明人の厚顔な偏見が、人類の尊厳を根底から蹂躙する。
私も文明人の一人として、こんな文明人の自虐的な疑問を一度ならず抱いたことがある。「人類が未開から文明へと進歩するのが必然なら、地球は人類を誕生させない方がずっと豊かな星であったのではないだろうか?」
あなたは、それに対して「否」といえるだけの人類の尊厳、ヒューマニズムを果たして持っているだろうか。あなたは、人類が地球上に存在しなければならない必然性をはっきりと主張できるだろうか。


ショーペンハウアーは、主著『意志と表象としての世界』第二版の序文において、同時代の哲学者ヘーゲルやフィヒテやシェリングらの知的躁狂を冷笑し、「Einsichten(明察)にあらずしてAbsichten(下心)が、これらの騒ぎ回っている連中の導きの星であり、彼らが思索する上で一番後回しにするのが真理であるというのもまた確かなことである」と揶揄している。
しかし、下心の哲学でも、金儲けの哲学でも、その実態を決して誤魔化さないかぎり、一つの哲学態度として認めてやってもよいのではないか。
もしも、哲学がただ迂遠な真理のためにしか役に立たないとしたら、哲学は何と微弱な光を放つはるか彼方の星屑であることか。


レーニンの主著『唯物論と経験批判論』に付録された人名索引には、ショーペンハウアーの項を、「ドイツの哲学者、ドイツ・ブルジョアジーの反動層の気分を反映した主観的観念論者。エンゲルスの言葉によれば、ショーペンハウアーの哲学は、俗物の精神的水準に寸法をあわせた、古い哲学大系の屑からなっている」と紹介している。
実に、哲学者同士も観点が違う相手には辛辣で情け容赦がない。
古い哲学大系の屑とまでこっぴどく批判されたことで、ショーペンハウアーの「この世界は考え得る最悪の世界」という言葉の正しさをみごとに立証しているではないか。
生涯を賭けた哲学的労作を、屑として葬られるようでは、なるほど哲学者にとって考え得る最悪の世界だ。


一つの箴言。
あなたの声は、ぼくにとって耳障りに響く。あなたは、自分の声が、他人の耳にどのように響いているのか、一度も聞いたことがないだろう。そういうあなたが、その耳障りな声で客観的真理とやらを説くのだから、笑止だ。


次ページへ
前ページへ
目次へ