随想録『パラボラ・アンテナ』
★P−25
アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と定義した。これは自由と責任の問題についてたぶんに示唆的である。
人間は社会において個人の自由を規制されるかわり、なにがしかの責任を軽減される。
つまり、社会に組み込まれる度合いが強まるほど、法的規制が厳しくなるほど、反作用として個人は責任感を衰退させてゆく。
法律の取り締まりが厳しければ個人が責任感を増加させてゆくと考えるのは常識のウソであって、むしろほとんど完全自由に等しい無法状態に放り込まれたとき個人は最も自己の責任感を充実させている。そういう状態にあって自己の言動に責任が持てなければ、たちまち破滅の危機に瀕するからである。それは何も他人不信ばかりではなく、自己不信にも駆られるからである。
引力の束縛をのがれた自由な宇宙空間で、人間は我が身の破滅を予感することなく、ただひたすら自由を謳歌できるだろうか。
自由それ自体は何もすぐれて歓ばしいものではなく、引力による抑制が必要なように人間はどうしても社会的規制を必要としている。
人間は自然界において一匹の動物にすぎないが、共存社会において人間であることを経験する。
中国の諺によると、滅亡に近づきつつある国家ほど煩雑きわまる法律の細目を有しているということである。
法的規制がやかましければ、それだけどこかに無責任がはびこることになる。
第二次世界大戦中に、国民生活の末端までやかましく規制した国家総動員法が、あげくには国家を無惨な焦土と化した。
ただの歴史的偶然ではない。
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私の弁証法は、いつも肯定と否定との間を揺れ動いている。一度として、弁証法的に止揚されたためしはない。
「その事が判るから、好きだ」
「その事が判るから、嫌いだ」
「その事が判らないから、好きだ」
「その事が判らないから、嫌いだ」
結局、どれが正しい判断なのだろう?
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精神の惰性というものが、習慣や様式や伝統を形づくり、あるいはステレオタイプの偏見にまで拡張されて人種的あるいは民族的な偏見や差別の悲劇を産み出す。
その第一歩は、「我れよく彼を知らず、彼またよく我れを知らず」という一知半解の困惑から、何とか相手を見慣れた形式にあてはめようとする精神の惰性を作りだすことである。現実の流動的な相手を理解するより、自己の流儀でパターン化した相手を理解する方がいちいち苦労せずにすむからである。それが精神の惰性、大ざっぱな公式主義である。
しかし、それが実在の相手をいかに見損なう理解であるかは、有機的な人間が決して「プロクルステスの寝台」のように、一つの体系に納めきれないことによって了解されるだろう。
偏見による蔑視は、相手を傷つけると同時に、自らの理性をも傷つけることになる。そこに流動的な現実に対する自律責任の適応不全をきたしてくるからである。依怙地な偏見の持ち主ほど、現実に対する不信感が強いのもこのためである。
人間は現実に裏切られることより、自らの精神の惰性に裏切られることがはるかに多い。「人間は実際にあるがままの人間なのではなく、おのれ自身が常になお疑問であり課題なのである」というヤスパースの言葉は含蓄深いものがある。
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