随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−24

私は、国家の死刑制度を最大の愚法であると、見なしている。
犯罪者のとった反社会的な行為にたいして、何らかの形で処罰するのはやむを得ないだろう。しかし、法の名において、国家の名において、犯罪者の生命を抹殺することは、いかなる判決文を作為しようとも、私には全く承服できない。
もしも殺人を犯したなら、その被害者に対して加害者は自らの生命で償うべきだ、という何とも算盤勘定高い合理的な社会通念というものがある。だが、あたかも等価の貨幣で支払うように、生命を生命で償うということがどうして可能なのか、私には分からない。
それは生命の物々交換に等しい発想であり、生命を物質に換算できると見なすことである。あげくには、生命に本来備わっている固有性そのものを踏みにじることになる。
犯罪者であっても、彼が呼吸しているのは、まさに彼の「固有価値」によってである。固有価値の先験性には他律責任が随伴し、現実には誰もがその固有価値に全責任を果たし得ないことを、私は知っている。だから、警察や国家といえど、犯罪者の固有価値を剥奪し、その息の根を停める権限はないのである。
いったん葬り去られた固有価値は、人為的には何としても取り還しがつかないのである。人間が行う審理は完全ではありえず、つねに誤謬や偏見がつきまとう。いかなる権力、権威を標榜しようとも、有限な人間は、死という絶対的な側面を合法的に償いようがないのである。死刑という国家の合法的殺人も、責任の所在は決まって便利な底なし沼に潜り込んで姿をくらます。死刑囚の固有価値は、その底なし沼で虚しく汚泥まみれにされる。
この世に絶対善も絶対悪も存在しない。ただ善悪は人々の偏見に彩色された中間的色調なのである。だから、私が死刑制度に反対するのは、万人に共通する客観的な善悪を知っているためではない。
ただ私は、もしも人間に無条件の尊厳というものがあるとすれば、それは固有価値によってである、という私の信念を貫きたいのである。
私は、人間の偏見の克服しがたさを自覚肯定している。だからこそ、何ものにも換えがたい人間の固有価値の特殊性を尊重している。それは、科学的あるいは弁証法的な認識の対象とはなりえない。どうやっても、人間の根源としての尊厳というものを認識できないとすれば、私はぎりぎりの存在根拠としてせめて確信するのだ。
「人間に無条件な尊厳があるとすれば、それは経験によって対象化される一般価値にあるのではなく、何ものによっても対象化されえない固有価値にあるだろう、と。」
そうした人間の固有価値を踏みにじって、犯罪者を処刑するということは、血で血を洗う報復合戦を肯定することと何ら変わらないのである。
いったい、生命を生命で償うことで、法律や道徳や善悪の算盤勘定がきちんとプラスマイナスゼロになった試しがあるのだろうか。
私の実存はまぎれもなく国家に結びつき、そして私は力の及ぶかぎり自己の実存に自律責任を果たさなければならない。国家が死刑囚を審くなら、その審きの責任を問うとき、私は全く無関係では済まされないのである。
そして私は、自分であれ他人であれ、人間の固有価値に対してどうやっても責任を全うしえないことを認めている。とすれば、いかなる国家的正義を振りかざそうとも、誰一人根源的に責任を果たし得ない制度は愚法である、と判定しなければならないのである。
たとえ人為的な制度としての国法であれ、人間の生存権を第一理念としてかかげるなら、その姿勢をどこまでも貫徹すべきである。
日本でも近ごろ、他の先進諸国並みに死刑制度を廃止しようという声が挙がっているが、廃止の理由が先進諸国並みというのも奇妙である。人間の生命の尊厳を真剣に問いつめるならば、先進諸国並みであるといなとにかかわらず廃止すべきである。
古代社会や未開地域にあってさえ、人間の生命を最優先とするしきたりによって、死刑を行わない部族はいくらでもあったのだ。死刑廃止自体は、なにも先進国の誇らしい証拠にはならないのである。


−−犯罪よりももっと罪の度の深い断罪(裁判)を、わたしはどれほど数多く目にしたことだろうか。
  モンテーニュ 『エセー』


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