随想録『パラボラ・アンテナ』


★P−22

の思考はいつも原点、あるいはユークリッドの原理に戻りたくなる。
「点」は位置だけあって、大きさのない概念である。「円」は中心からの距離が同じ点の集まりである。
では、「点」と「円」を極限状態でもなおかつ区別する方法はあるのだろうか。
中心からの距離が限りなく0に近い「円」と大きさのない「点」は、果たしてどこが違うのだろう。
数学者は、都合のいいときは「円」と見なし、都合が悪いと「点」と見なすのではないだろうか。
しかし、物理法則が表すとおり、その導き出す法則は「円」と「点」ではまるっきり違う。
いや、このことについて、私の問い方が間違っていたのかも知れない。正確にはこうである。
「円はどこからどこまでが円であり、どこから点と区別できなくなるのだろうか?」
この問題は竜巻のように、くり返し私の人生に襲いかかってくる。
答えを知りたいが、答えがないことも知っている。


私は、現代に生きる覚悟を表明する。
現代とはすなわち、思索のことごとくが根拠を持たず、挫折に向かって生きることに他ならない時代なのである。
私という単独者が、単独者でしかない絶望的な意識をかかえて死んでゆかなければならないという覚悟である。
本当に長い間、私は哲学と格闘してきた。それは、自慢したいためではなく、自分にとってそうせざるを得なかったのだ。
しかし、私には20年経っても、30年経っても、確然的な思索、必然的な哲学は何一つ訪れてこなかった。
かえって、果てしない論争、相対的な見方、宿業的な偏見、それらがますます私の狭い視野を覆いつくしてゆく。
私のどうにもならないほど頑強な偏見は、つぎの如し。
「人間は、自分がやがて死ぬことを知っている限り、ニヒリズムはどうしても克服できない。」


私は無神論者ではない。しかし、唯一絶対の神というものを信じてはいない。
キリスト教は、貧しい狩猟牧畜民族の間で生まれ、彼らの都合のいいように創作された唯一神を崇める宗教である。
その教説によれば、家畜や野生動物は、人間に利用され食されるために、神から与えられた賜物と意固地に決め込んでいる。
そこに、あらゆる生命に対する根源的な憐れみは存在しない。あるのはただ、喰うか喰われるか、支配するか支配されるかという弱肉強食の論理、支配者と奴隷の哲学である。
日本人である私は、キリスト教を知れば知るほど、自分の精神とほど遠い宗教であることを痛感してしまう。
「では、おまえはビフテキを喰わないのか、刺身を喰わないのか?」と反論されそうである。もちろん、私は両方とも食する。それを否定はしない。
しかし、それでもなお私の精神の深みで、唯一正しい神はありえない、という声が響いている。それが私には、あらゆる生命に対する根源的な憐れみの声であると思っている。
私はそれらの生命を支配できない。いかなる生命も奴隷であってはならないのだ。
私の生命が強いから、弱い牛や魚を食したわけではない。自分の生命もまた弱いことを知っている。
たかだか七,八十年の貧弱な生命を養うために、他の生命を犠牲にしたことに対して、自分の生命に対しても憐憫を覚えるのである。
唯一絶対神のように頑強に自己正当化しても虚しいことを知っている。
一般的なキリスト教徒と、私のこの根源的な違いはかなり大きいと思っている。

−−一般に直耕して、大小、上下すべて二品なきは自然なり。しかして聖人出でて大王となりて以来、大小の序出て、大は小を食み、序を以て全く禽獣虫魚に同じ。是れ聖人、人倫の世を以て禽獣の世となすなり。今の世全て是れなり。故に全て人に非ず。ほしいままに生きてよこしまに行ふ。聖人の罪なり。
  安藤昌益 『統道真伝』


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